非常に長文となりましたので、二部構成にてお送りいたします。
今回は第一部。「常子は何故とと姉ちゃんであり続けたのか」について、妄想を炸裂させております。ご笑覧ください。
マイダス(以下マ):いやホント、不思議なドラマだったねえ。ドラマとしてのエンタテイメント性とかキャラへの思い入れとか、そういった所とは別の所に面白さがある気がした。
ラ:俺たちはいわゆる朝ドラクラスタではないし、モチーフとなった「暮らしの手帖」創業者の二人にもほぼ思い入れはないし、ついでに言えば脚本を手掛けた西田征史さんの事も知らなくて、あの「タイバニ」の!と云われても、「タイバニ」自体何の事だかよく分かってねぇ(笑)という、いわば完全に素人として観てるんだけれども、だからこそ惹かれる部分があったというか。
マ:私なんかはドラマの初手から妙な違和感を感じてたのね。第一周で、常子一家の日々がそれは幸せそうに描かれるじゃない。ととなんて、あの時代にこんな父親いねえよ!と思うくらい、今の眼から見てもほぼ理想のお父さんで。それがいきなり亡くなる。正直最初はそれはねえだろうと思った(笑)。でも考えてみたら、主題歌の「花束を君に」も、宇多田ヒカルさんがお母さんの死について率直に思いをつづった歌詞でしょ。それがまたドラマ全体のムードと妙に合っている。そんな朝っぱらから死の匂いをさせてていいのか(笑)。
ラ:(笑)。
マ:という所から例えば、ととは何故常子をたった一人呼び出してあんな重い願いを託したのか?とか、そもそも「暮らしの手帖」を作った人の話が「とと姉ちゃん」というタイトルなのもおかしな話だよなあ、という具合に芋づる式に問いが自分の中で湧き上がって来て。そこからだね、「これは何かあるな」と思いだしたのは。
ラ:確かに、俺たちが普通というか、常識的と思ってる振る舞いとはしばしば違う振る舞いをしているよね、このドラマの人物は。例えば、「あんな年端もいかない子供にあんな重い事(ととの代わり)を託すなんておかしくない?」とか、常子にしても、内面や、本当の気持ちがよく分からないような演出をされている事について批判とか、「共感できない」というような声がネット上でしばしばあったけど、あれはあえてああいう描き方をしているから、的外れな批判なんだよね。「そういう描き方をすることによって、見えてくるものとは何か?」という問いを立てるというか、観る側が半歩ぐらい身を乗り出してみると、このドラマはがぜん面白くなる。また全体を通して、そういう問いというか、妄想(笑)を掻き立てやすくする仕掛けがたくさんしてあるんだよね。
マ:ある週でのエピソードと似たエピソードが、すごく離れた週の全然関係ない場面にあったり、ある人物の行動が観る人によって別の意味合いを持つような含みを持たせたりね。でもこれっていわゆる「伏線」じゃないんだよね。推理小説みたいにしっかりと事実関係としてつながりのある関連じゃなくて、あくまで「視聴者の解釈によってはそう見える」位のある意味ずるい仕掛け(笑)。文章のレトリックで言ったら押韻、掛け言葉、対句、それと似たような手法を演出でやっているのが面白い。
ラ:で、今挙がった「ととと常子との約束」については、君はどういった見方をしているわけ?
マ:非常に独断と偏見全開で言うと(笑)、あれは宗教における「神の啓示」のアナロジーなのね。ととが神で、常子が啓示を受けた宗教者。
ラ:ほほーう。
マ:そういう視点で見ると、特に前半部分は腑に落ちる事が多くて。常子が「とと姉ちゃんになる」って宣言してからの、その役割へのこだわりってちょっとおかしいじゃない?それこそ家族ですら引くくらい(笑)。ネットでは「とととの約束がある種の『呪い』として機能している」という意見が多くあって、それはそれでアリだと思うけど、私は「啓示を受けてしまった者が、神の教えを実践しようとして周りに理解されない」という図の方がしっくりくる。そもそもあんな楽園的なとととの生活の終焉とその後という話からして、楽園追放と地上に神の国を建てんとする人間の物語そのものじゃない?
ラ:まあ旧約聖書とかとは違って、楽園追放は別に常子たちのせいじゃないけどな。そのアナロジーで行くと、さしずめ常子はとと教の開祖って事になるのか(笑)。ただその仮説にのっとった場合、花山と星野の位置づけはどうなる?常子をめぐる男(笑)はこの二人なんだけど、ちょっとねじれた関係性だよね。ととを彷彿とさせる星野とは恋愛関係になるけれど、成就しないで終わる。花山はとととは真逆のキャラで、恋愛感情は一切ないにも拘わらず、常子の理想を体現する「あなたの暮らし」を共に作り上げる、ある種のソウルメイトとなる。
マ:うーん、確かに星野さん♡はととの似姿としての側面があるけど、だからこそ一緒になってはいけないという気がする。星野さん♡と一緒になるっていう事は、常子が「とと姉ちゃん」としての役割を放棄するという事でもあるし、さっきの「ととのいた人生=楽園」「ととの死以降=追放された地上」という図式で行くと、星野さん♡との生活は「疑似的な楽園」にしかならないと思う。それではダメなんだよね。あくまで常子が自分自身の手で、あの日々と同じくらい輝ける日々を作らなければならない。花山のような、「楽園には絶対いなかったような人間」をパートナーに選ぶというのは、その為の必然というか。花山以外にも、森田屋の人々とか、担任の先生とか、「楽園の世界とは違う世界観の人々」が常子に与えた様々な影響が、常子の作った楽園の中にはいろんな形で息づいているし、その事でタフなものになっている。星野さん♡は常子とピッタリ過ぎるがゆえに、そういう貢献は出来ないような気がするな。
ラ:…どうでもいいけどさ、星野の名前を出す時にいちいち「さん♡」つけるの止めてくんない?たださえ字数多過ぎなんだし、さっき「キャラへの思い入れとは全く別なところで面白い」って言ってたのがまるで説得力無くなるじゃねえかよ。
マ:彼は特別だから♡。
ラ:はいはい。…ただ君の話を聞いてると、レヴィナスの逸話を思い出すよ。
マ:レヴィナス?
ラ:うん、レヴィナスはアウシュビッツを生き延びたユダヤ人の哲学者なんだけど、終戦後帰化したフランスに帰った際に、若いユダヤ人の間で信仰に背を向ける者が続出していたんだそうだ。あんなホロコーストなんていう非道な事があったのに、神様は何も助けて下さらなかったじゃないか、もう神なんて信じられるか!みたいな。
マ:ふーん。
ラ:そこでレヴィナスが説いて言うには、君たちそれは間違ってるぞと。そういう、悪行や苦難において必ず神が助けてくれるような世界では、人間はそれを取り除く努力を何もしなくなる。神は人間をそんな幼児のような状態にさせておくために作られたんじゃないだろと。地上の困難は、あくまで人間がこの手で打ち克っていかなくてはいけない、それこそが神を信じる人間の勤めなのだよ、という事を説いて、フランスのユダヤ人共同体を再建したというね。
マ:常子の話と繋げるのはちょっと無理があるような気がするけど(笑)、そのレヴィナスさんが言わんとする事はわからんでもない気がする。
ラ:(苦笑)そうか。
マ:で、最終話で常子の夢の中にととが出てくるんだけど、私はととが出てくる事自体は予想通り、とまでは云わないまでも、少なくとも意外ではなかった。常子が作り上げたものに対して、最終的に審判を下すのはとと=神だから。でもそのととが涙ながらに常子に謝罪するという、あの展開は驚いた。
ラ:それはやっぱり普通の人の親として考えたら、自分が若くして死んだ事で遺された妻子が苦労したという罪悪感は感じるでしょ。それと同時に思うのは、さっきの星野と花山の話じゃないけど、ここでもう一ひねりあるわけよ。最後の肯定は、神(とと)のご託宣という形じゃなくて、常子自身が「ととを失ったという運命」をも含む形で語ってこそ意味がある。そうした形で自己肯定が出来る常子である、という正にその事がととが望んでいた事だし、それは、幼い頃から人とちょっとものの見方や行動が違う常子をずっと肯定してくれていたととへの返礼でもあるんだよね。
マ:その肯定の根拠というのが、三つの誓いが成就したからとか「あなたの暮らし」が成功したから、というものではないんだよね。そういう外的な成功はもちろん自信になっただろうけど、一番根底にあるのは、「とと姉ちゃん」にならざるを得なかった運命と、それを全うしてきた事自体に対するイエス、なんだよね。
ラ:そう!人間が課せられた苛烈な宿命は人間が引き受けてこそ意味がある。ほら、さっきのレヴィナスの話とつながっただろ?
マ:分かったって(苦笑)。
第一部はここまでです。