不定期連載「馬の脚」第9回「恋する原発」を読んでしまった!

 大変久し振りの「馬の脚」であります。
 ここの所はてめえの商売(アルバムリリースの事ですね)に付随する事で忙しかったというのもありますが、
 段々色んな事を知ったり、改めて気付いたりしていく上で「これ以上何を言ったらいいのか、分からなくなった」というのが正直なところでした。
 昔小沢健二の歌に「ありとあらゆる類の言葉を知って何も言えなくなってしまうような そんなバカなあやまちはしないのさ」という秀逸なフレーズがありましたが、
 ありとあらゆる言葉を知るはるか以前の段階でバカなあやまちに陥ってしまったみたいですね。

 そんな中、先日ほぼ15年ぶりくらいに「文芸雑誌」というのを買ってしまいました。
 勿論そんな事をしたのには理由があって、高橋源一郎さんの最新作「恋する原発」が全文掲載されていたからなのです。
 何でもこの小説、一旦掲載を見合わせられたといういわくつきの作品ですが、まあタイトルからしてタイトルだしね(笑)。いや勿論、差し止めなんてそんな事は決して許されるべき事ではないのですが、何はともあれ出版されてまずはよかったよかった。

 タイトル以上に中身はとんでもないものでした。
 そもそもの設定からして、東日本大震災の被災者へのチャリティAV(!!)を作ろうとする制作会社の男達の話という、色んな所から色んな風に色んなやり方で怒られそうな話なのですが(笑)。
 とにかく説明しづらい小説です。高橋文学に慣れ親しんだ方にとっては「いつもの事」なのかもしれませんが、パッと見筋の通ったストーリーがありませんし、時間軸も文体も意図的にシャッフルされています。なので単純にストーリーを説明しようとすると、「えっと、AVのメイキングや企画会議でのアイディアみたいなシークエンスが矢継ぎ早に出てきて、そのシークエンスで出演者がいきなりクイーンとかビートルズとかのヒット曲をすんげえヘンな歌詞の替え歌で歌い出して、制作会社の会長は唐突に今上天皇がいかに最高かを力説しだして、時々語られる登場人物のトラウマチックなエピソードの中に戦中~戦後日本の重要事件とのリンクが入ってて、そーいうのがしばらく続いたらいきなりミヤザキハヤオやカワカミヒロミ(文中でカタカナ表記してあるのです)の作品をネタに『震災文学論』が始まって・・・」とか本当に支離滅裂、つうか単にこの説明が支離滅裂なだけか(笑)。とにかくそれ位説明しづらいんです。
 ただ、難解というのとはちょっと違うかなと思います。だって別に眉間にシワ寄せて読まなくても全然読めますし、しかもゲラゲラ笑いながら読めますから。と言うかむしろ、眉間にシワを寄せない方がこの作品の面白さというのを理解できそうな気がします。替え歌のリリックのどうしようもなさにゲラゲラ笑って、矢継ぎ早に場面が変わる疾走感に身を委ねて、人が変わったようにいきなりシリアスな文学論を語りだすスリリングさにドキドキして、という感じで読んだらいいと思います。そう、まるでロックンロールを楽しむかのように。

 私の単純な理解でまず思ったのは、「メチャクチャな現実にはメチャクチャな虚構を」というねらいだったのかなと思います。
 まあもっともらしく言えば、震災以降の現実―原発は爆発し放射能はだだ漏れ、そこで見えてきた政官財情報全てに及ぶこの国の「本当のありさま」、そして多くの民は右往左往するのみ―というメチャクチャ極まりない現実にタイマン張れるだけのメチャクチャな(でも面白い!)物語をぶつける、という事だと思います。
 そういう意味でも、非常にロックンロールな小説だなと思いました。いや、本来はロックンロールがこういう事をしなきゃいけないんですけどね。

 では、ただ単に「ああメチャクチャな話読んで面白かった、スキッっとしたぜ!」という所がこの小説の着地点なのか?
 予定調和的な言い方で申し訳ないのですが、やはり、そうはならないのです。
 先ほども少し申しましたが、物語の後半に唐突に「震災文学論」という1項が設けられています。
 これは文字通り、「震災における文学」についてのガチな論考なのですが、取り上げられている作品の中には、『風の谷のナウシカ 完全版』や『苦界浄土』など、この度の震災とは直接関係ない作品も「震災」後の作品、という書き方がされています。
 勿論意図的なもので、ここでの「震災」は単なる地震その他の自然災害とは別の概念です。
 では、ここで語られている「震災」とは?
 すごく大雑把に言えば、「我々が世の中を成り立たせている上で、見えないもの、見ないようにしていたものを見せつけられてしまう機会・場所」であろうと思います。それは単に「原発の危険性をあいつらは隠していた!」みたいな、社会批判的な意味にとどまらないのですが。
 これまた勝手な解釈を許してもらえれば、「文学」というのはその「見えないもの、見ないようにしていたもの」を様々な言葉を尽くして現実の中から掘り起こし、これまた様々な(通り一遍の見方じゃない、という意味で)光を当てていく営為である、そこにこそ文学の骨頂がある、という事がこの論考の核になっているのだと思います。
 そう考えていくと、この一項をしめくくる下の言葉はとても重いものです。
 我々は「見えないもの」を見ようとしてきていたか?と問われているようで。

 おそらく、「震災」はいたるところで起こっていたのだ。わたしたちは、ずっとそのことに気づいていなかっただけなのである。

 この後物語は一気にラストに向けて突っ走ります。
 ネタバレになるので詳述はしませんが(関係ありませんが、私は必ずしもネタバレが悪とは思っていません。ただこの小説の場合、発表後間もないという事もありますし、結末を読んで分かった気になってもらうより是非実際に読んで欲しいと思っているので、結末部分を明かさない事にしたのです)、その最後の最後のシーンで、そもそも何故タイトルが「恋する」原発なのか、そしてこのお話の中での「原発」の正体が何なのか、が明らかになるのです(と私は思ったのですが)。
 字面だけ追っていったら相当ムチャな結末なのですが、ここを読んで涙ぐんでしまう人がいても不思議ではありません。つうか私自身涙ぐみそうになりました(読んだ場所が電車の中だったので何とか堪えましたが:笑)。
 ただこの結末は、勿論全部通して、特に「震災文学論」を踏まえてでないと分からない作りになっていると思います。ですのでラストと「震災文学論」は交互に読み返してみることをお勧めします。

 と、ここまで書いて思ったのですが、もう掲載号とっくに売り切れてる、というかヘタすると来月号がもう出てますね(笑)。ただ大きな図書館とかでは置いてるかもしれないので、興味があったら是非あたってみて下さい。


付記
 と思ったら早くも単行本化決定とか。こりゃ出るまで待ったほうがいいね(笑)。