映画「ニーチェの馬」感想(2011年、タル・ベーラ監督、ハンガリー映画)

 まず最初に白状しておくと、このハンガリー映画界で巨匠と目されるタル監督の作品を私は今まで一度も観た事がない。というか、この監督の存在自体知らなかった。
 そんな映画門外漢が何故劇場に足を運んだかというと、邦題に惹かれたのと(笑:ちなみに原題を直訳すると、「トリノの馬」となるらしい)、ネットで観た予告動画でのあまりにも美しい映像に魅入られたからである。

 2時間半の長丁場を観終えた感想を言うと、
 映画であった。
 という一言に尽きる。
 何じゃそら、と思われる方も多いだろうが、そう思ったのだから仕方がない。
 前回のコラムでは「素晴らしい作品であった」としておいたが、ここまでこちらの想像力を超えた凄い作品に対しては、生半可な賞賛などする気にもなれない、というのが正直な所だ。
 あまり上手い例えではないが、ピラミッドやナスカの地上絵などを見て人は「これはよく出来ていますねえ。素晴らしい!!」などとは言わないものだろう。どうしたらこんなものが作れるのか、何故このようなものが作られたのか、わからないままにただ魅入られてしまう、そういうものではないだろうか。そういう意味での「映画であった。」という事であるとご理解いただきたい。

 のっけからこの映画、「どうしたらこんなものが作れるのか」と観る者に思わせるシーンが連発される。
 例えば冒頭のナレーションの後、荒れ狂う風の中を必死に歩く馬と御者のシーンがワンカットで延々映される。と言ってしまえば簡単だが、(具体的に伝えられなくて申し訳ないが)ワンカットであのカメラワークであの長さで、どうすればあんな撮影が可能なのか、本当に私には分からなかった(単に私が映画技術を知らないだけかもしれないが)。セルロイドフィルム(!!)で撮られた映像自体もものすごい迫力で、しかも美しい(馬のアップの際に映る、風で乱れる体毛の写真の見事さと言ったら!)。
 セリフは、極端に少ない。いや少ないなんてもんじゃない。何せ前述のナレーションから初めてセリフが出て来るまで、たっぷり30分を要する(あんまりセリフが出てこないから計ってみたのだ:笑)。言葉以外の音も、基本的には随所に流れる重厚な音楽(たった1曲のみ!サントラCDの作りようがない:笑)と、執拗な暴風の音だけ。映像描写も、御者と娘の単調な日常の所作(着替える、食べる、寝る、水を汲むなど)が飽く事なく繰り返されるだけなのだ。
 我々が普通に観ているような映画の線で想像すると、こんなものは映画にも何にもならないだろう。そう言えば二人の食事は毎日茹でたジャガイモ1個だけというつましいものだが、それこそこの映画はジャガイモ1個でフルコースを作るようなものである。しかしそのジャガイモ1個が作り出す世界の何と豊穣な事か。

 ストーリーやテーマについても書いてみよう。と言っても、ピラミッドについてトンチンカンな解釈をするトンデモ本のような事しか書けないとは思うが。
 この映画は1889年のトリノで、哲学者ニーチェが御者に鞭打たれる馬に泣きながらすがり付き、その後発狂したというエピソードを基にしている。ナレーションでは「馬のその後は誰も知らない」と語られ、それから物語が始まる格好だ。
 素直に考えるなら、その後語られる御者と娘と馬の話が「その後の物語」という事になる。「その後の物語」は6日間に区切られ(聖書の創世記を逆行させてみた、とは監督の弁)、単調な御者一家の日常に日が経つにつれて様々な変化が起こり始める。
 馬は餌を食べなくなり、流れ者が訪れ、井戸は涸れ、しまいにはあれ程吹いていた暴風も止み、世界は光を失ってしまう(井戸の水を飲んだ流れ者の一人から娘が書物を手渡されてから変化が加速するのはなかなか示唆的だ)。
 図式的に考えるなら、ニーチェの発狂が引き金であったかのように、御者一家の日常が徐々に崩壊していった(=世界が崩壊していった)、という事になる。
 ただ、どうなのだろう?確かに世界はなすすべもなく崩壊していくのだが、実の所崩壊する前も後も、御者や娘の日常の過酷さに大差がないように見えるのは私だけだろうか。
 この物語を創世記の逆回しとするなら、神が創りし「完璧な世界」からその前の光のない混沌に戻った、という事になるのだが、もはや茹でる事も出来なくなったジャガイモを、それでも1日目と変わりばえのしない表情で生でかじる(もっとも娘は食べようとしていないんだが)親子を映したラストシーンは、神に向かって、「お前が作り上げたご大層な『完璧な世界』とやらは人間の生の過酷さとその克服にどう関わりがあるのだ。そんなものがあろうがなかろうが、我々の生は変わらず過酷ではないか」と問うているようにも、私には思えるのだ。

 それにしても、色んな意味で「贅沢な」映画ではあるのだが、いくらタル監督が才能に溢れているとは言え、国家予算的にも映画産業的にもどう考えても日本より遥かに小さいとしか思えないハンガリーでどうしてこんな映画が可能になったのだろう。
 聞く所によると、一家が住む家の窓から大木が見えるのだが、窓からのその景色が欲しいがためにその位置に実際に家を建てて(もちろん馬小屋も含む)そこで撮影したのだとか。黒澤明かよ(笑)。いや逆に言えば、日本でも黒澤の時代にはこれが出来てたという事なんだよな。今はなあ…。