「現実を超えた現実」について

 去る11/16(水)に行われたTARJEELING11月講演において、「現実を超えた現実」と題して、通常の楽曲とは異なる「リアル講演」を行いました。
 講演自体は、用意していた原稿を前半で早々に放棄して(笑)後半はほぼほぼアドリブで行ったのですが、終了後、聴講生の方から、元原稿を読みたいというお話がありましたので、元原稿をここに掲載したいと思います。
 何せこの「リアル講演」自体が当日の朝思いついてその後1時間ほどで一気に書き上げた原稿ですので、かなり粗があるのですが、そういうのもある種の「ライヴ感」が出ててよかろう、と判断して、敢えて加筆訂正は行わず掲載いたします。
 ご笑覧いただければ幸いです。どうぞ。

先日アメリカの大統領選が行われ、ドナルド・トランプ氏が大統領にえらばれました。私は帰宅してからPCを開き、ネットでの皆さんのリアクションを見ていました。多くの方ががっかりしたり、憤ったりしていましたが、その中に、恐らくライヴイヴェントの主催者の方だとは思いますが、やはりトランプが選ばれた現実に対して非常に不安に思うようなことを書かれていて、その後に、現実逃避をしたい方は今夜自分の主宰するイヴェントへどうぞ、という主旨の事を書かれていたのですね。
私はそれを読んで、そう書きたくなる気持ちは非常に理解できましたが、ライヴイヴェントが現実逃避として位置付けられている事については、異論があると思いました。
ライヴイヴェント、ひいては音楽、映画、文学、アートなどを現実逃避のためのものとして機能させることは、2016年の現在において果たして有効でしょうか。

実のところ今この国に暮らす我々は、現実逃避の道具については実に事欠かない世の中に生きています。テレビのバラエティ番組、ネットで配信される笑える動画、街のあちこちにあるアミューズメント並びに様々な消費活動のための施設などに加え、最近ではニュース報道や、日々の労働ですらこの現実から目を背けるための装置としてしばしば使われる有様です。そしてそのアクセスの方法にせよ、わざわざその場所に出向いて、お金を払って観るなり聴くなりするという労苦をせずとも、好きな時にスマートフォンで無料で、それこそ寝っ転がってでも可能な方法もたくさんあります。単純なコスパ的な話で言ったら、ライヴイヴェントなんて、ただの現実逃避としては「割に合わない」し、「他のどこでもやっている」。つまるところ、現実逃避としてのライヴイヴェントの存在価値というのは、2016年のこの国においては、それほど高くない。私だったらそれに金と時間を費やしません(笑)。
 敢えてコスパという嫌な響きの言葉を使いました。ここで言うコストというのは、お金と時間の問題もありますが、諸君が、そして私がわざわざ今この瞬間にこの場所にいるという事、他のありえた可能性を排除して、このただ一つの現実を選んでいる事それ自体の事を指しています。
「現実逃避」は結局のところ、今の現実をただ補完するものでしかない。一時的に目をそらして、そして戻ってきた際にまた同じ現実がそっくりそのままに残っているのです。逃避する事で多少元気を取り戻したりはするのかもしれませんが、立ち向かう当の本人がそのままだったら、またつまづいて、疲弊して、消耗するのは眼に見えています。そんな事のために「この他ならぬ現実」の時間を使うのは、たまにならいいかもしれませんが、ほっといてもそちらへのいざないが濁流のように押し寄せてくれる現在においては、端的に言って「もったいない」。

では、ここでもたらされるべき、このコストを補って余りあるものとは何か?恐らくそれは「現実を超えた現実」でありましょう。
「現実を超えた現実」とは、現実逃避とも、ただの現実とも違います。我々はそこに確かに我々が今抱えている現実とは異なった相貌のものを見るわけですが、それを見る事で我々はまるっきり現実と無関係の、夢の世界に遊ぶのではない。多くの場合は単純な現実の戯画に堕してしまうのも事実ですが、上手くいった場合のそれは、我々の見る現実そのもののようなのに、まるでパラレルワールドに迷い込んだようにまったく見え方が違う現実をそこに見出したり、今ここで我々が体験している現実と80年前の現実、2万5000キロ離れた場所での現実、野良猫や渡り蝶の見ている現実をすべて同時に「同じ現実」として体感する事すら可能なのです。そして「現実を超えた現実」を体験したのちには、私たちが戻っていくそれぞれの現実の見え方も、また少し異なってきます。言い換えれば、現実の見え方が今までの見え方から少しだけ、自由になる。その見え方の中には、ひょっとしたらこの現実をよい方法に導くためのヒントが、隠れているかもしれない。もっと直截に言えば、「現実を超えた現実」を体験する事によって、諸君や私、そして我々が観ている「現実」は、変わるんです。
いやそんな事を四の五の言う前に、「現実を超えた現実」を体験して、今までの自分の枠組みでは処理しきれない事に触れて、楽しかったんだか感動したんだか衝撃的だったのかすらよく分からないエモーションに心が占拠されてしまう事の方が、単純な現実逃避より、格段に、「面白い」。私はそう信じています。

先日「この世界の片隅に」という映画を拝見しました。この映画も「戦時下の現実」「我々が今直面している現実」「主演を務めた能年玲奈さんが見舞われた現実」などなど、様々な現実をいちどきに現出し、今までと全く違う位置づけをもたらしてくれる素晴らしい「現実を超えた現実」の映画でした。今音楽が、映画が、文学が、アートが、向かうべき方向は、こっちです。