前にも説明した事があるけどもう1回。
この企画、高橋さんが「ことば」(文学の言葉、政治の言葉、その他諸々)についての考察を深夜0時からアドリブで(!)twitterに書き込んでいくというもの。
ここ数日は近日発売される新作「さよなら、ニッポン」のメイキングという事で、毎日行われている。今回はU-STREAMで考察&書込の映像も流されるとの事。
この企画、高橋さんが「ことば」(文学の言葉、政治の言葉、その他諸々)についての考察を深夜0時からアドリブで(!)twitterに書き込んでいくというもの。
ここ数日は近日発売される新作「さよなら、ニッポン」のメイキングという事で、毎日行われている。今回はU-STREAMで考察&書込の映像も流されるとの事。
その第一回にあまりに感動したので、私は前回の本コラムで異例の全文掲載を行った。
あのレヴェルの文章を、毎日連投である。文章力の高さも勿論だが、恐るべき考察の濃度。そして、大切な事をたった一人の人に語りかけているようなあの語り口。
いくら書く事が商売とは言え、また新作の宣伝目的もあるとは言え、頭が下がる。
実は私はリアルタイムで「小説ラジオ」を閲覧した事はない。
なので、あの濃密な言葉の数々が順次立ち上がっていく瞬間を知らないので、本当にはこの企画の醍醐味を分かってはいないのだろうと思う。
ただ、ログとして残っている言葉だけでも、その一端は十分感じる事が出来る。
高橋さんはこの企画を、「路上演奏」にしばしばなぞらえている。
また、例えば昨日の「予告編」の中では、
>みなさんに見守られながら、その緊張感があってこそ、ふだん考えられないところまで、行けるような気がします。
と語っている。
演者がリアルタイムで相手に向かって何かを発し、相手が何がしかのレスポンス(これは拍手とか声援とか、そういう目に見えるものだけとは限らない)を行い、それがさらに演者の発信するものを高めていく、というのは、「ライヴ」の理想形ともいえる。
そして残された言葉の数々から、この「小説ラジオ」もまた、至高のライヴの一つに他ならないであろう事を私は想像するのだ。
あのレヴェルの文章を、毎日連投である。文章力の高さも勿論だが、恐るべき考察の濃度。そして、大切な事をたった一人の人に語りかけているようなあの語り口。
いくら書く事が商売とは言え、また新作の宣伝目的もあるとは言え、頭が下がる。
実は私はリアルタイムで「小説ラジオ」を閲覧した事はない。
なので、あの濃密な言葉の数々が順次立ち上がっていく瞬間を知らないので、本当にはこの企画の醍醐味を分かってはいないのだろうと思う。
ただ、ログとして残っている言葉だけでも、その一端は十分感じる事が出来る。
高橋さんはこの企画を、「路上演奏」にしばしばなぞらえている。
また、例えば昨日の「予告編」の中では、
>みなさんに見守られながら、その緊張感があってこそ、ふだん考えられないところまで、行けるような気がします。
と語っている。
演者がリアルタイムで相手に向かって何かを発し、相手が何がしかのレスポンス(これは拍手とか声援とか、そういう目に見えるものだけとは限らない)を行い、それがさらに演者の発信するものを高めていく、というのは、「ライヴ」の理想形ともいえる。
そして残された言葉の数々から、この「小説ラジオ」もまた、至高のライヴの一つに他ならないであろう事を私は想像するのだ。
ここまで書いて、私は考え込んでしまう。
私の活動の中には、「ライヴ演奏」というものも含まれている。
とても大事なものと考えている。
ライヴ演奏は、やはり実際に見ないと良さが分からないよ。
演奏者の表情とか、見知らぬお客さんとの一体感とか、そういうのをじかに感じられるのがいいんだ。
ネットで分かった気になんかならないで、会場に足を運ばなきゃ。
ライヴに関して、かような意見が(主に音楽関係者から)しばしば語られるのを目にする。
私もこうした意見に関して、基本的には同意である。
だが、「小説ラジオ」みたいなものをインターネット上で見せられてしまった日には、みんなが褒めそやしている「ライヴの良さ」って何なんだろうと思ってしまう。
勿論、高橋源一郎という破格の才能を持つ文章家だからここまでのものになっているというのは大きい。
だが、才能がないならないなりに、彼が「ことば」に関して、「観客」の視線を感じながら毎晩毎晩考えているのと同じ位の突き詰め方で我々は音楽と向き合っているのか。
「生演奏ならでは良さ」だの「お客さんとの直接のコミュニケーション」だのといった事に体よく寄りかかってはいないか。
「生演奏」を本当の意味での「ライヴ」にしようとしているか。
いやそもそも「ライヴ」の本当の良さとはどこにあるのか。
そこをやはり、考えてしまうのだ。
私の活動の中には、「ライヴ演奏」というものも含まれている。
とても大事なものと考えている。
ライヴ演奏は、やはり実際に見ないと良さが分からないよ。
演奏者の表情とか、見知らぬお客さんとの一体感とか、そういうのをじかに感じられるのがいいんだ。
ネットで分かった気になんかならないで、会場に足を運ばなきゃ。
ライヴに関して、かような意見が(主に音楽関係者から)しばしば語られるのを目にする。
私もこうした意見に関して、基本的には同意である。
だが、「小説ラジオ」みたいなものをインターネット上で見せられてしまった日には、みんなが褒めそやしている「ライヴの良さ」って何なんだろうと思ってしまう。
勿論、高橋源一郎という破格の才能を持つ文章家だからここまでのものになっているというのは大きい。
だが、才能がないならないなりに、彼が「ことば」に関して、「観客」の視線を感じながら毎晩毎晩考えているのと同じ位の突き詰め方で我々は音楽と向き合っているのか。
「生演奏ならでは良さ」だの「お客さんとの直接のコミュニケーション」だのといった事に体よく寄りかかってはいないか。
「生演奏」を本当の意味での「ライヴ」にしようとしているか。
いやそもそも「ライヴ」の本当の良さとはどこにあるのか。
そこをやはり、考えてしまうのだ。
付記。
「そんな難しい事グダグダ考えるヒマがあったら、ライヴしろよライヴ。考えすぎなんだよ」という意見もあるかと思う。
まあ確かに、私は考えすぎているのかもしれない。それは認めよう。自分でもウザいし(笑)。
でも、その事を重々承知しつつ、たった一言だけ言わせて頂く。
そういう事一つ考えた事ないからいつまでたってもお前の「ライヴ」は下らねぇんだよ!!!