不定期連載「馬の脚」第6回 「『100,000年後の安全』に見る、『業』としての原子力」

 先日、話題のドキュメンタリィ映画『100,000年後の安全』http://www.uplink.co.jp/100000/を観てきた。
 本文と関係ないが観に行く前、家人と途中で偶然出会った友人の両方から、「楽しんできて」と言われた。
 ははは、「楽しんで」観る映画じゃないわなあどう考えても。まあ観終った後も別に絶望的な気分にはならなかったが。
 
 原発の使用に伴う放射性廃棄物の処理をどうするのか。
 現在の所有効な回答はないのだが、少なくとも最先端の方法の一つが、フィンランドにある大規模な処理施設である。
 これは18億年前の地層という安定した大地の地中深くに(放射性物質が無害化するまでの)10万年は耐用しうる大規模な廃棄施設を作り、そこに廃棄物を埋めてしまい、今世紀末に操業を停止した後は施設自体を完全に封印して誰にも立ち寄らせないようにするという計画だ。
 この施設の安全性をめぐって、施設の運営責任者や政府の担当者はじめ、様々な人物にインタヴューしていくというのがこの映画の内容である。
 
 まず、この映画はこの手のドキュメンタリィにありがちな、「施設の危険性やそれに携わる人間を一方的に告発する」類のものでは全くない。
 無論、上記の関係者に対して厳しく追求する場面もあるのだが、あんなものは例えば『ボーリング・フォー・コロンバイン』におけるマイケル・ムーアの殆どリンチの如き詰問っぷりに比べたら学級会と国会ほどの落差がある(無論、ムーアの方が学級会である)。
 また、告発される側が「悪人」として描かれていない。基本的に質問には真っ当に答えているように見えるし(途中何回か官僚の答弁化するけど)、この方法を決定・実行するにあたっての利権構造とか(あるのかも知れんけど)、そうしたものを「暴く」ような場面も皆無である。
 だからある種のプロパガンダ映画をこの作品に期待していた人達にとっては、結構肩透かしな内容かもしれない。
 ではこの映画は一体何を「告発」しようとしているのだろうか?
 
 この処理方法の最大の問題点は、「10万年もの間、施設が未来の人間に掘り返されないようにする有効な手立てがない」という事に尽きる。
 読者の皆さんは、10万年後の人類に「ここは危険です。ゆめゆめ掘り返さぬようよろしくちょんまげ」といったメッセージを伝える事が出来ると思いますか?
 ちなみに今から10万年前というと、ネアンデルタール人という原始人が生きていた頃。
 つまり、今の人間が10万年後の人間に危険を知らせるという事は、ネアンデルタール人が我々に同様のメッセージを伝える位「出来そうもない事」なわけです。
 作中でもその方法(石碑を建てる、廃棄物についての文書館を作るなど)がいくつか検討されてはいるのだが、いずれも有効な方法とは言えない。
 勿論、放射能はそんな事とは関係なく、今の人間にも10万年後の未来人にも、当然他の生物にも環境にも、等しくシリアスな影響を与えるわけで。
 そういう「自らのタイムスケールをはるかに越えた物質」を用いてこの文明社会を日々運営しているわけですよ、人類ってやつぁ。
 
 ただ待って頂きたい。
 そういった「手に負えないもの」を取り扱っている人類の愚かさを告発するもの、としてこの映画を捉える事は簡単だ。
 だがそんな事だったら、例えば山岸涼子の『パエトーン』などでとっくに我々は承知している。わざわざこの映画を観る必要などないはずだ。
 
 この作品の中で何度か登場する、ある滑稽なフレーズがある。
 最も理想的なこの施設の未来図というのは、施設自体の存在が「忘れ去られる」というものだそうだ。
 即ち、忘れ去られてしまい、施設の上の地面に普通に民家や動植物が住まい、施設を作る前の環境と同じになってしまえば、わざわざ好き好んで掘り起こす奴が出て来る可能性は低くなる。
 だから、我々はこの施設の存在を「忘れないように忘れ去ってしまわなければならない」のである。
 ん?何かおかしいぞ。
 「忘れないように忘れ去ってしまえ」というのは語義矛盾ではないのか。
 いや違う。これは「決して忘れ去らないでくれ」と解釈するべきなのだ。
 
 人間が他の動物と違う点に「時間の概念がある事」が挙げられるという。
 言い換えれば人間には「死の概念がある」という事だが、「死」を知っているが故に、(それへの恐怖から)自らの命や、子孫や、作ったものを少しでも長く、出来れば永遠にとどめておきたい、という欲望を我々は持っている。
 そしてそれが我々の文明を発展させる大きな力の一つとなった事は否めないだろう。
 そして、我々の文明がそういうものである以上、我々が原子力に向かってしまうのは必然と言える。
 ただし、それが恒久的なエネルギーと思われるから、だけではないと思う(というか、映画でも触れられているが別に「恒久的なエネルギー」じゃないしね。ウランが尽きたらそれで終わり)。
 暴論を承知で言えば、我々が魅せられている(魅入られている?)のは実は悪影響とされる「放射能」の方ではないのか。
 放射能は我々が死に絶えた後も、はるかに長い間この地上にとどまり、後々のものに影響を与え続ける。「忘れ去られる」事はない。
 これって我々が「文明」に託してきた事と同じではないか。
 原子力エネルギーの利用がその危険性やコストパフォーマンスの悪さなどを指摘され、糾弾されてきたのは今に始まった事ではない。
 それでも、原子力エネルギーの利用はなかなかなくなる方向に行かない。
 それは裏ではこんな陰謀があってすってんの、という話ではなく、そういう禍々しくも超越的で、殆ど永遠に近い位永らえるものを手にしたがるのが我々の「業」であり「性」だからなのだと思う。
 そしてその「業」は、いつまでも長生きしたい、自分が死んだ後も子供には幸せな人生を送って欲しい、自分の創った芸術が時を越えて人々を魅了して欲しい、といった「健全な」欲望と同根にある。
 だからこの問題は難しい。その「愚かさ」を告発し、正しい知識を与えれば解決するという事ではないからだ。
 もし原子力の問題を超克したいと考えるなら、「愚かさをどう糾すか」という方向ではなく、「業とどう折り合いをつけるか」という線で考えなければダメなのではないだろうか。
 
 施設関係者も、そしてこの映画制作者も、意識の上ではこの施設が忘れ去られた方がいいと思っている。それは間違いなかろう。
 だが、それが忘れ去られる事が、「業」の部分で彼らには耐えられないのだろう。それを肯定する事は、人間の「業」を否定し去ってしまう事と通じているから(この映画自体が、「10万年後の未来への警告」という体裁を取っている事に着目されたい。「忘れ去られて」しまっては、この映画の製作意図そのものも無に帰すのだ)。
 その事が彼らに「忘れないように忘れ去ってしまわなければならない」というおかしなロジックを使わせているのではないだろうか。
 この映画は、恐らく最初に意図した所とはまったく違った文脈から、「原子力を人間が扱う事」と「それを棄て去る事」の困難さを、我々に示してくれているのである。