不定期連載「馬の脚」第11回「馬脚をあらわした、その先へ」

 今日は震災後1年という事で、この国のありとあらゆる立場の人が色んな所で色んな事を発言するでしょう。
 正直、私なんかの出る幕じゃねえという気もします。
 また、常日頃享楽的なライフ、震災前と何ら変わりない考え方で日々をお過ごしの方々や各種メディアなんかが今日に限っては取ってつけたように哀悼の意とか、絆とか、そういう言葉を吐くのを見るにつけ、根があまのじゃくなので、いっその事今日1日(だけ)は思いっきりアホな事ばっかりしたり、不謹慎な言動を連発してやろうかとも思ったのですが(笑)、
 まあ、いけませんやね(別に不謹慎だからではなく、そういう事を特にしたくてやるわけじゃないので)。
 私は私なりに、粛々と自分の考えをまとめる事とします。
 震災以降、この不定期コラムを書くようになってもう11回目になります。
 第1回からお付き合いいただいている(大変奇特な)方々以外には、「馬の脚」という奇妙なタイトルの意味が分りかねると思います。
 そこで改めて説明しますと、「馬脚をあらわす」から来ております。
 つまり、震災や原発についてここで書いたり、いろいろアクションを起こす事で、自分という人間がどういう人間で、どういう考えや感受性を持ち、世の中に対してどう見ているかということに関しておのずと「馬脚をあらわす」事になるであろう。いや、そうしたい、何故なら「本当に考える」事はそこからしか始らないだろう、と思ったからです。
 以後どのような馬の脚がどれだけ晒されたのかは読者の皆さんの判断にお任せしますが、震災後1年経って思うのは、「馬脚をさらす」事になったのは何も自分だけではないな、という事です。
 いや、自分の周りの範囲に限っても、twitterやブログといったレベルでの発言や、デモやボランティア、募金といったアクション(あるいはそういった事へのノーリアクション)などを見るにつけ、震災や原発について考える事や行動する事はほとんどの場合、その人の「馬脚をあらわす」事になっているように見えます。
 いい事なのかもしれません。
 ですが、何だか素直に喜べないのです。
 例えば、私のtwitter http://twitter.com/TAGAHILLRECORDS のタイムラインでは、時として反原発(とアニマルライツ)に関するツイートが死ぬほど溢れる事となります。
 それ自体はそういうフォロワーの方が一定数いらっしゃるから当然なのですが、割と以前から気になっていたのが、自分の主張に与しない者や無関心な者を罵倒したり嘲弄したりするトーンのツイートや、同意しない者に対して恫喝的な(呪詛的な、といってもいいかもしれません)言葉を浴びせるものが散見される事です。
 もちろん、こうした事は2ちゃんねる全盛のいにしえからネットにおいては常にある現象ですが、ああした事があった後もまだ「これ」をやるのか、結局この人たちの晒した「馬の脚」とはこうしたものか、と思うと愕然とするのも事実です。
 他人の事は言えません。自分だってほぼ間違いなく、過去何度もtwitterなどでそうしたコメントをしたり、リツイートしてきたはずです。
 そして一方では(特に自分が住んでいるのが九州だからかもしれませんが)、冒頭にも述べましたが震災や原発の記憶自体を早くも半ば風化させてるような人だっています(少なくとも日頃の言動ではそうとしか思えない、という事ですが)。
 そういう人に対して「震災以降この国は色んな意味で変わらなきゃもたないよ。今後の事をみんなで考えるべきだよ」と言ったところで何になりましょう。いや、実の所そういう人たちを自分だって半ば羨ましく思ってすらいるのです。
 
 各人が「馬の脚をさらす」事自体は、やはり必要だったのだろうと今でも思います。
 ですが、それはまず自分の本性―ロクでもない所も―をあらわにして、他人の本性もしかと見て、その上で同意したり喧嘩したり、共通の立場を見出そうとしたりするために必要なプロセスとして、と自分では理解していたのですが、
 自分も含めて、そのようには機能しませんでした。むしろ多くの場合、自他との差異のみを露わにし、「似た者同士でツルみ、敵対者とは罵倒しあい、ようわからん人はスルー」という今まで通りのコミュニケイションを補完する事にしかならなかったのではないでしょうか。
 今朝の内田樹さんのツイート http://twitter.com/levinassien より。耳が痛いです(以下引用)。
 
 おはようございます。3月11日です。あれから一年経ちました。長かったようで、ひどく短かった一年でした。日本人は「国難的状況に一丸となって対処する」という道を選ばず「それぞれの理を言い立てて国民の分断を辞さない」道に踏み出してしまいました。
 もう一度国民的統合に向かうチャンスはあるのでしょうか。それを可能にしてくれるような、広々とした、雄渾な、手触りの優しい「物語」を僕たちは構想できるのでしょうか。それがいちばんたいせつな「供養」のように僕には思えるのです。合掌。
 
 (引用終わり)
 
 私は内田さんほど(というか全く)愛国的(愛「国民国家」的)な人間ではないので、「国民的統合」ばしゃんもんでん(=どうしても、という意味の八代方言)せにゃいかんとか、とついつい思ってしまうのですが(まあ、あんなに頭良くないし)、やはりこのような形での「分断」を居心地悪く感じるのは同じです。
 「(それぞれの)理を言い立てる」というのは、「自分の正しさを証明する」「自分を正当化する」という事につながっていくと思います。結局の所、私達は震災や原発も自己正当化のネタにして終わりなのでしょうか。
 お互いの馬脚にきちんと向き合って議論する事、分断をできるだけ回避して相通じるものを探す事、これは一朝一夕にはできる事ではないのでしょう。
 そうするためにはある程度の時間と熱心さをもってのトレーニングが必要なのだと思います(ある意味では我々は日頃「そうならないためのトレーニング」をずっと行ってきたとも言えますから)。
 そしてそれは、原発の状況や被災者の現状を正確に知るのと同じ位、重要な事になってくるのではないかと思います。
 誤解してほしくないのですが、これは「なあなあで行こう」と言う事ではないのです。それでは分断と同じコインの裏表にすぎません。
 じゃあどうすればいい?
 それは…。