「あまちゃん」の批評性について

 今更私が言う事でもないですが、「あまちゃん」の勢いが止まりません。東京編になっても相変わらず高視聴率をキープしているし、twitterのタイムラインでもオンエア時間の直後はあの台詞の元ネタは何だ、今日のミズタク(松田龍平演じるマネージャーの愛称)のどこが萌えだのといった話題でもちきりです。
 
 私自身、こんなに面白がって観ているドラマというのも久し振りで。朝の連続テレビ小説で言ったら「ゲゲゲの女房」もかなり観てましたが、あれはドラマが面白いというよりはモデルになった水木夫妻の人生が面白いという感じだったので(笑)、純粋にドラマそのものの力で観ちゃってるというのは、…何年ぶりだろうなあ?

 ところで、先日twitterで、このドラマの音楽を手がけている大友良英さんが面白い事を書いておられたので引用してみます。
 
それにしても「ダサいくらい我慢しろよ!」のアキちゃんのひとこと、いいなあ。80年代以降のダサくならないために頑張って、結果ものすごく駄目な感じになってしまった今に対する体をはった批評性を持った言葉なんじゃないかと宮藤さんの本から勝手に深読みさせてもらってます。

 ドラマを観てない方のために補足説明しますと、この台詞と言うのは主人公のアキが正月に帰省した時に一緒にアイドルを目指して状況を約束したユイと再会した時に出てきたセリフです。
 ユイはお父さんが病気になったり、お母さんが蒸発(!)した為に上京できなくなって、そのせいでやさぐれて。で再会したアキにも結構ひどい言葉を浴びせるわけです「アイドル目指すなんてバカみたい、ダサい」みたいな。それに反発したアキの言葉が上記のセリフというわけ。

 大友さんは「勝手に深読み」と言ってますが、私はこれ、深読みでもなんでもないと思ってて、逆にこのツイートに、「あっそういう事か!」と気付かされた感じがしました。
 少し熱心に観ていると、「あまちゃん」がただ面白おかしいと言うよりは、すごく批評性に富んだドラマだという事はすぐにわかると思います。
 それは例えば80年代の音楽やらサブカルやら風俗やらを縦横無尽にパロディ化する手法であるとか、朝ドラにあるまじき登場人物のキャラ設定とか、面白くする為なら民放番組のネタだろうが容赦なく使い倒す痛快さなどに分かりやすく現れているのですが、私は何となく「確かにそこも面白すぎるくらい面白いけど、恐らくこのドラマのキモはそういう所ではないだろう」という事を漠然と感じてはいたのです。
 で、大友さんのツイートを見て思ったのは、実は「あまちゃん」の最大の批評性というのは、非常にエモーショナルなセリフとか、感動的なシーンなどに宿っているのではないか、一見それは「グッとくる、泣ける、いい場面」的な受け止められ方をするんだけれども、その「グッとくる、泣ける」という事実が「そうなっていない今」というものへの鋭い批評になっている、そういう構造なのではないか、という気がしたんです。

 私がここまで(7/29)の「あまちゃん」で最も感動したシーンと言うのは、アキが上京する際にお母さんの春子と言葉を交わすシーンなんです。
 アキは東京ではパッとしない、引きこもりみたいな感じの子だったんですが、三陸に来て、海女になって、地元アイドルになって、日を追う毎に生き生きしだすんですね。
 なので、普通だったらどう見ても「三陸に来て、変わった、良くなった」と言う感じですよね。で、実際アキも春子に「お母さん、私変わった?」と尋ねる。
 でも春子は「変わった」とは言わないんです。「何にも変わっていない。相変わらず地味で暗くて猫背で」みたいな事を言う。けど、その後にこういう事を言うんです。
 「けど、あんたと出会って周りのみんなが変わった。あんたは、周りのみんなを変えたんだ。それってすごい事なんだよ」
 これはねぇ、やられたと思いました。
 このシーン、確かに泣くくらい感動的なシーンではあるんです。でも、例えば周りに「承認」して欲しいがために、自分を押し殺し空気を読み、日々コミュニケーションに汲々としている今の人たち(必ずしも「若者」とは限りませんね)に対する批評として捉えたらどうでしょう。
 「周りに愛されたり、認められるためにあなた自身を変えなければならないというのは、どっかおかしいと思わないか。周りをどうこう思い悩む前に、あなたはまずあなたである事を全うしてみたらいいじゃないか。それで周りが変わるかもしれないよ?」
 先の春子のセリフを、私はそういう風に捉えました。そして、これはかなり鋭いなと、そして鋭いだけじゃなくて、そういう人達への暖かな眼差しも感じさせる、優れた批評だと思ったのです。

 ただ間違ってはいけないのは、大友さんが引用したアキのセリフにしろ春子の言葉にせよ、(当たり前の話ですけど)批評性が先に観てる側に伝わるわけじゃないんです。あくまでエモーショナルなものとしての機能が先に立つ。で、そのセリフや場面に感動したり驚いたりした後に、「これに感動してるってのは、一体どういう事?…あっ!」みたいな形で批評性が露になる、という事なんです。
 批評的な眼差し、というと我々はどうしても、重箱の隅をつつくように揚げ足を取ったり、アレはこのジャンルのどれ、などと細かく分類して(主に批評してる人だけが)納得するようなものを想像しがちです。「あまちゃん」みたいなケースは、珍しい。大友さんがいみじくも「体を張った批評性」という言い方をされておられますが、こういう「エモーション、身体性からはじまる批評性」というのはとても貴重であるし、今後とても必要とされてくる事なのではないかと、私は思っております。そういう意味では、「批評性のありように対する批評」でもあるんですね「あまちゃん」は。



付記
 この拙文を大友さんのツイートを枕にして始めましたが、考えたら大友さんが「あまちゃん」の音楽で試みている事も、「今のドラマにつけられている音楽の現状」に対する「体を張った批評」とも言えますね。だからああした言葉が出てきたのかな?