一人称と二人称

 最近はいわゆる「地元のインディーシーン」との交流もほとんどなくなってしまったので、誰がどういう動きをしているかとかどのバンドが音源を出したかという情報はまるで入ってこなくなってしまった(ま、それってこっちとしても今それほど欲しい情報ではないけど)。
 なもんだから、今年の秋頃相次いで知り合いのミュージシャン音源を手に入れる事が出来たのは最近ではめったにない機会だった。
 その知り合いの音源というのは、ポカムスの藤田進也さんのソロアルバム「福岡と二人称」と、昔世界激場を共にやっていたみねまいこさんが送ってきて下さった5曲入りCD-Rである。
 もっとも、みねさんの分はアルバムとして発売されているものではなく、すでにiTunesで配信されている4曲+1曲を特別に作ってくださったものだ。
 この2枚がまた、非常に好対照な作品&どちらもとても素晴らしい出来で、興味深く聴かせて頂いた。
 今日はその話をしてみたい。

 まず藤田さんの方から行こう。
 アルバムタイトルに「福岡と二人称」とあるが、これほど的を得たタイトルもそうはないだろうなと思った。
 音楽的に言えば、曲によってはゲストミュージシャンを加えたアンサンブルも聴かせつつ、基本は藤田さんのアコースティックギターの弾き語りを軸としたいわゆる「シンガーソングライター」然としたアルバム、という事になる。
 シンガーソングライター、というと、ともすれば非常に個人的な心情(エゴとも言う)や日常風景を聴き手にただ一方的に押し付けて終わり、といったものになりがちだ。
 藤田さんの場合も非常に個人的な出来事から歌を出発させているとは思うのだが、不思議とそういうエゴイスティックな印象は受けない。
 こういう言い方が的確かどうか分からないが、このアルバムの中には、歌を作って歌っている藤田進也という人に加えて常に「もう一人」の息遣いがあるように思えるのだ。
 その「もう一人」というのは例えば歌詞の中に出て来る人物だったり、一緒に楽器を鳴らしたり歌ったりしているゲストミュージシャンだったりする。歌詞が全くの一人称で、演奏も弾き語りの場合はどうか。聴いているこちらが、まるでその歌の世界の中に入って生きているかのような気にさせる作りになっているのだ。
 全体としては録音形態も歌のテーマも結構バラバラなのだが、「もう一人が入る余地が作られている」事に関しては、これはもう見事なまでに一貫している。
 色々な場面で藤田さんという人を見て思うのだが、藤田さんの周りにいる人たちというのは何かにつけ彼の事を構ったり、いじったりする。たまに行き過ぎの時もある気がするが(笑)、基本的には彼は周りの人に愛されてる、というか「一緒にいたい気にさせる」ように思える。これはもう才能だろう。そういう彼の資質、才能がとても良い形で音楽として結実している1枚だと思った。
 ただ、私の考えでは唯一「弥勒」という曲は徹頭徹尾一人称の曲だと思う。そういう1曲がアルバム全体に陰影を与えているのは言うまでもない。

 一方、みねさんはどうか。
 みねさんの場合、自身による打ち込みのトラックを基調としているが、割と大幅にフィーチャーされているヴァイオリニストや、バンドサウンドを導入した曲もあったりと、これまた他者の要素はそれなりにあったりする。
 しかし受ける印象は藤田さんと真逆だ。どんな人が入ってどう演奏しようと、そこにあるのは徹頭徹尾みねまいこワールド。
 例えば「1914年のコラム」のイントロのヴァイオリンなんてメチャメチャカッコいい演奏なんだけど、この音楽全体の前では、そのパートを演奏したり、フレーズを思いついたのがヴァイオリンの方なのかみねさんなのか、そういった事はもはやどうだっていい(笑)。
 これはヴァイオリンの方をけなしているわけでは勿論なく、ここで鳴ってるあらゆる音や歌(みねさん本人のをも含む!)は「みねまいこの音楽」という一つの世界の一部として完璧に構成され、配置されている、という事を言いたいのだ。
 ある意味極めて一人称的な音楽とも言えるが、彼女の場合は世間一般で言う「一人称的なもの」の表層にある中途半端な個人的思いやエゴなどすらも解体するほど突き詰めて「私にしか出来ない音楽(&言葉)」を構築しようとしているので、これはこれで「エゴの垂れ流し」的なものには全くならないのである。
 以前から彼女がそういうタイプのアーティストであるというのはファンなら分かっていた事だろうとは思うが、それにしてもこの徹底っぷりはファーストアルバム「転位のための十曲」の比ではない。そのため、音が鳴らされた瞬間にその空間を一つの世界に染め上げてしまう力というのは、これは本当に図抜けている。そこに関して言えば、本当に世界レヴェルと言っても差し支えないと思う。
 なので、iTunesもいいけど、私としては是非パッケージ(必ずしもCDでなくてもいいが)で発売してほしい。MP3をコンピュータやiPODで鳴らしてヘッドフォンで聴くより、オーディオで空間に向けて音を放つという再生方法の方が、この音楽の快楽を堪能するのにはよりふさわしいと思う。

 というわけで、あまりに好対照な二人の作品について綴ってみたわけだが、一つだけ二人に共通している事がある。
 自分が何ものか、という事を真摯に突き詰めて音楽に向かっているという事。そして、そうする事で表層的な個人の感傷やエゴを見事なまでに感じさせない音楽を作ったという事だ。
 私に言わせれば、それこそが音楽家のなすべき仕事というものである。