「人類が永遠に続くのではないとしたら」加藤典洋著 感想文

 数年前、「世界激場」というイヴェントの最終回を行った際、お客さんに渡すパンフレットの中に「私が脱原発を志向する本当の理由」という文章を書いた。
 詳細はここでは記さないが、かいつまんで言えば、人間が「ちゃんと」滅びるためには原発は止めなければならない、というのが大雑把な趣旨である。
 当時も今も、書いた後自分で自分の事をイカれていると思った。
 また、これはほとんど誰の同意も得られない考え方だろうとも思い、また根拠をその文章でまともに示せているとも思わなかったが、
 ただ上の言葉以上にしっくりする言葉を思いつかなかったし、今でもそうだ。
 というか、原発を推進するにしても反対するにしても、双方の主張の底にある「そうする事によってこの国は、人類は、困難を克服する・さらに発展する」という発想そのものに嫌悪感を感じていた、というのがより正確なところかもしれない。
 何でこの人たちは人間がそんなに発展しなければならないと思うのか。そうする事が無条件でいい事だと何の躊躇もなしに思えるのか。
 アタマオカシインジャネエノカ?

 そんな思いを心の片隅に抱えて暮らしていたある日、奇妙なタイトルの本を書店で見かけた。
 『人類が永遠に続くのではないとしたら』。著者は、加藤典洋
 そのタイトルに強く魅かれた。
 いつか読もう。立ち読みで済ませるとか、図書館で借りて2週間で通して読むとかではなく、これはガチで読まなければならない。
 そう思った。

 それから2年弱。やっと読むことができた。
 早く読めよ、と言う突込みは甘んじて受け入れる(笑)。
 取りあえず通しで1回、ノートを取りながら1回。
 それでも1月以上かかってしまった。ついでに言えばこの文章も最初に書き出してからすでに数か月かかっている(笑)。

 論旨自体は、私が予想していたものとはやや違っていた(が、とても面白かった)。
 こんな感じだ。
 3.11、特に福島第一原発事故の発生によって、私たちが生きている世界に対するある信憑が限界にきてしまった。
 加藤さんはその考えにいたるきっかけを、原発の保険について報じた小さな記事から得る。
 この度事故が起こした原発に関しては保険が打ち切られ、無保険状態(原発の無保険状態は法で禁じられているという)を避けるために東電が供託金を出したというだけの内容だが、
 これは実は保険という概念の基本を損なうような大きな事なのだそうだ。
 つまり保険が打ち切られるというのは、自動車にたとえて言えば、自動車事故のために保険に入りましたが、いざ事故に遭ったらその規模がとんでもなく大きかったので保険金払えません、保険契約切らせていただきます、という事で、誰が観ても分かる通り、保険が保険の体をなしていない。
 この保険と言う「事故-弁済」の関係を法律における「犯罪-刑罰」の関係性と比較すれば、これが現代社会を構成する基本的なところを脅かしかねないような事態だ、というのはご理解いただけるだろう。しかもこれは「想定外」の事故であったが故の特殊な事例というよりは、むしろ近代の技術革新のあり方(巨大化・高度化)からくる必然的な出来事だというのだ。
 そこから加藤さんは思考を拡張していき、古今の近代論・産業技術論・社会論etcや、いわゆる60年代後半のカウンターカルチャーや90年代以降のIT革命が残したもの、更には『世界がもし100人の村だったら』(覚えてますか?)やラノベまで引いて、現在の近代観、世界観、人間観が直面している問題をあぶり出し、「その次」に来るべき思想について思考を展開していく。
 まるで優れた探偵がわずかな血痕を糸口に証拠を集め、推理を重ねて巨大な事件の全貌をあぶりだすかのように。

 近代、特に1950年代以降の近代(後期近代)についての考え方は、消費社会化・情報化を肯定し、近代社会が無限に発展するとする「開放系」の考え方と、経済成長の結果による自然環境の破壊により限界にきているという「閉塞系」の考え方に大別される。
 加藤探偵は、どちらの説にも問題点があるとする。
 近代が限界に達している事は間違いないが、それは「閉塞系」の人が口にする「このまま野放図に生産と消費を続けていけば地球環境がもたない云々」と言う話だけではなく、(前述の原発事故の保険の例にもあるように)近代における産業の発展の仕方そのものの中にも限界が宿っているという。
 故に人類は有限の世界を生きなければならないのだが、それはただ限りある資源を爪に火を点すような感じで「ただ生きながらえる」というのではダメで、自由を実現し、幸福を求め、生の喜びを享受できるような生き方のための思想の確立が問われている。
 それはどういったものか。
 それをここで記述するのは非常に難しい。単に私の読解力・記述力がないというのもあるし(と言うかそれが理由のほとんどだが)、加藤さんの思考の道筋が色んな所・ジャンルに展開し、それぞれの思考の矛盾や限界を指摘しては次へ、といった感じでうねうねと進んでいくので、単純にまとめる事自体が不可能に近いのだ。
 ただ一つだけ申し上げておくと、近代の思想の基本にあるのが「することが出来る」をめざす、という一方向的なもので、それは「人類は永遠に発展しなければならない」事を前提とする思想(エコロジーの論理も基本「このままでは人類が存続しない、だから対策を」という考え方ですからね)なのに対し、
 来るべき新しいの思想の基本は「することもしない事も出来る」という、ある種力能(できるという事)や欲望(やりたい事、出来るようになりたいという事)に対して自由な距離を置いた考え方で、近代思想にあった人類の発展への強迫的な縛りを前提としない。いやむしろ、「人類が永遠に続くのではない」事を受け入れ、肯定するからこそ可能となる思想だというのだ。
 その前提に立つ時、人間観も従来の無意識―本能を下位、意識―理性を上位とする近外的な人間観から、両者が相互にフィートバックしあうものに変化していくとする。
 そして、その思想や人間観の萌芽となるような出来事は、既にいくつか起こっているという。いやむしろ、これまでの近代の発展→その限界、の果てに起こり始めた様々な現象により、新しい思想への糸口が準備されつつある、といった方がより正確かもしれない。

 新しい思想の始まりとは言っても、今日明日とか今年来年とか、そういう短いスパンで起こる事ではもちろんないだろう。
 そういう意味では、「3.11以降の新しい思想を模索する」とは言うものの、本書で提示されている思考が、例えば原発廃炉や日本における真の民主主義の確立に即役立つとか、そういうわけではない。
 しかしだからこそ、ここで示されている考えの道筋は、この先何年も立ち返られ、参照され、再検証されるに値するものだと私は考える。
 新しい思想を模索するという事は、本当はそういう事に違いないからだ。

 最後に。
 私の頭ではなかなかついていくのが難しい(というかそれ以前の問題として、引用されている人・本・事柄etcについてほとんど知識がない!)内容だったし、それこそ理性レベルでは反論したい個所もないではなかったのだが、「腑に落ちる」というレベルではとても共振できたという、なかなか不思議な一冊だったのだが、
 あとがきに記されていた、加藤さんが本書を書くに至った理由の一つを読んで全てが納得いった。
 加藤さんの事情と、本書の大きなテーマと、私自身の考えている事の一つが、惑星直列のように一直線に連なっているような気がした。
 こういう本に出逢えたのは望外の喜びだ。