『乱歩と東京』再読雑感

 思う所あって、『乱歩と東京』を数日前から再読し始めている。


 本書は江戸川乱歩の主要作品をもとに、主に彼の全盛時の1920年代からの東京(と日本の社会)の変貌を論じたものだ。
 実は以前、世界激場で行っていた読書会『JIYU-KENKYU』のテキストに用いた事がある。
 その際はこのような議論を行ったのだが、今改めて本書を読み返すと、その時とはまた違った所が興味深い。

 『JIYU-KENKYU』で本書を取り上げた動機の一つに、現代の都市文化の抱えている問題の原型といえるべきものが興ったのがこの時代であり、現代を考える上でこの時代を再考しておくのは有意義だろうと思ったという事がある。
 で、震災を経てもう一度読み直してみると、20年代以降に日本が歩んでいった敗戦という「第一の破綻」の道筋を震災後の日本がトレースしているような錯覚に陥る。
 いや別にこれから戦争が起こるとか、そういう話をしているのではない。
 敗戦を近代日本の「第一の破綻」ととらえるならば、「第二の破綻」はこの震災ではない、むしろこの後に生じるのではという印象と、恐れを私は抱いている、というだけの事だ。
 多くの人は震災以降を第二次世界大戦の敗戦と、その後の復興になぞらえて話しているが(私も最初はそうかなとも思ったけど)、それは多分間違いだ。多めに希望的観測が入った。
 じゃあ具体的な証拠を示せと言われると答えに窮する。
 窮するのだが、例えば本書で列挙されている、近代化によりもたらされた様々な変化―それは感覚の変化だったり、制度の変化だったり、思想の変化だったりする―や、それによって生じた様々な問題、そしてそれに翻弄される都市の住人の姿というのは、90年を経て今私たちが体現している現代の日本人のそれと、驚くほど類似しているように見える。新しいメディアやライフスタイルが出来るとすぐに飛びつき淫して意気軒昂に見える反面、社会に対しては驚くほど無力で一人ひとりが分断されている様などそっくりではないか。
 そして、同じような人間ならば、それを自覚して何らかの対処をしようとしない限り同じような事をするだろう。または、破綻に歯止めをかける事が出来ないまま終わるだろう。
 こういう言い方はアレかもしれないが、たとえ脱原発が成功したとしても、ここを克服する、少なくともその為の糸口をつけておかないと、「第二の破綻」は別の形で必ず来るものと思われる。それを回避する為にはとりあえず、先人達の「失敗の記」を読み直してみるしかないのだろう。

 そういう意味では、私は本書を『JIYU-KENKYU』で取り上げた時よりもやや切実な気持ちで読んでいる。