言葉におびき寄せられてしまった。

 昨日は、art space tetraにて開催された「詩と朗読の会」に参加してきました。
 今回、当初は前回の当コラムで紹介した「怪人二十面相・伝」の一節を朗読するつもりでしたが(笑)、昼休みに朗読するくだりを物色してみたけれどどうもしっくり来ない。
 こりゃ困ったなと思いつつ、よく立ち寄る書店を(別に朗読するネタを探すつもりもなく)半ば習慣的に訪れたところ、文庫コーナーに平積みされている新刊本のうちの一つに目が留まったのでした。
 それは、白石一文「この世の全部を敵に回して」という小説でした。
 タイトルからしてなかなか挑発的で素敵ですが、そのタイトルが黒の背景に表紙一杯に大書されているのを見て、なにかしら直感が働いたんですね。何とはなしに手に取ってみたんです。
 パラパラと前書きのような件をめくってみると、どうもこの小説、既にこの世にいない男の手記という形式を取っているらしい。
 こういう挑発的な題でかかれる手記とはどんなものなのかしらん。
 そう思い、適当な所を開いて、読んでみたんです。

 お。
 見つけた。
 そう思いました。
 当然ですが、この時点でこの小説の全容というものを私は全く知りません。白石一文さんの著作自体、私はまともに読破した事がないし(「一瞬の光」というのを読もうとして挫折した事が:苦笑)、何よりもまずこの小説の存在を知って5分と経っていなかったのですから。
 また、手に取った時点ですら、朗読のネタにするつもりなど全くなかったのです。
 ですが、その5分で十分でした。
 これこそが私が本日朗読すべきものである。
 まるで最初から決まっていたかのように、私はそう確信してしまったのです。

 不思議な事もあるものです。
 くどいようですが、私は朗読のネタを探しに書店を訪れたわけでもなければ、その小説の内容はおろか存在自体も、ましてやそれが文庫化されて新刊コーナーに平積みにされてる事など全く知らなかったのですから。
 まるで「言葉におびき寄せられて」しまったかのような体験でした。その一節は今日私に朗読されるのを待ち構えており、私は今日その一節を発見する為だけに書店に足を運んだのではないか、そんな錯覚すら覚えました。
 これが小説として出来がいいのかどうかはおろか、今後読了してみて最終的に自分が気に入るかどうかすら、私にとってはどうでもいい事です(気に入るに越した事ぁありませんけどね)。
 昨日私と「この世界全部を敵に回して」は、一節を朗読する(される)ためだけに出会った。これだけで、充分の様な気がします。

 どのくだりを採用したのかはここでは割愛します(引用するとかなり長くなりますし)。ただ、この小説を読まれた方には、最後らへんの飼い猫についてのあたりです、とだけ申し上げておきます。
 私はこの小説、まだちゃんと読んでないんですけどね(笑)。