不定期連載 「馬の脚」第5回 「今この国に足りないものは、埴谷雄高である。」

 先日、YOUTUBEで、10数年前のTVドキュメンタリー「埴谷雄高独白~『死霊』の世界」をまとめて観た。
 
 埴谷雄高。1909年生まれ、1997年没。小説家。
 私は作品のほんのいくつかと、彼の死後('98年)に関係者や影響を受けた人(お手伝いさんから思想界の巨人まで)が彼について語ったインタヴュー本でしか知らないのだけど、まあ、とんでもないじいさんである。
 簡単に略歴を話すと、このじいさん、今から100年くらい前に割と裕福な家に生まれ、当時のインテリ坊ちゃんの常として(笑)共産主義に走り、捕まって出所した後に、何度かの中断をはさんで、死ぬまでの50年近くの間延々『死霊』という長編小説を書き続けて未完のまま死んじまった人である。
 一つの話を延々50年以上書くだけでも凄いが、その『死霊』という小説たるや難解を極め、誰が言ったか「翻訳されればノーベル賞ものだが、難しすぎて誰も翻訳できない」。私は1回半読んだけど解説がなければ何言ってるのかさっぱり分かりませんでした。
 そもそも『死霊』という小説(ちなみに「しれい」と読むそうです。ホラーとかではないよ:笑)、本人語る所によると、かつて共産主義をやっていた事への反省として「社会の仕組みを変えるだけの革命ではダメだ、人間存在の仕組みそのものを変える革命を目指す」という動機で始めたそうなのだが、その革命の仕方がまあとんでもなく無茶である。
 
 例えば、
 自分が自分である事。
 人間が、子供を産んで子孫を残していく事。
 他の生き物を食べないと生きていけない事。
 時間と空間にしばられてしか存在できない事。
 こういった事は、私やあなたにとっては当たり前というか、疑問を差し挟む余地もない事柄だったりするじゃない。
 このじいさん、この全部に逆らってます。NOを唱えています。
 「何でそうでしか人間は存在できないの?それでは永久に人類は救われないよ。もっと他の在り方があるはずだ!」とこの小説の中で全身全霊で言ってます(ように見えます私には)。
 それだけなら、まあ単なるキチガイの妄想というか(笑)、そういうもんで終わってもおかしくはないんだけど(いやある意味でこの小説こそそのものなのかもしれないが)、それをあくまで論理的に、しかも小説として(!)「もうええっちゅうねん!」というくらいしつっこく、粘り強く追求していったのが『死霊』という大長編なのだ(まあ、解説本とかの受け売りですが)。
 故に小説のセリフとはとても思えない言葉遣いで登場人物が延々と議論を交わし、キリストやブッダも「魚や豆を喰った」かどで食った相手に(!)断罪されてしまう。最終的に今までの人間存在を越えるものとして「虚体」という概念が暗示されはするのだが、具体的にはそれが何なのかは語られずに終わってしまう。
 
 このじいさん何が楽しくて人生の大半をこんな事に費やしたんだろうと、多分これ読んだ人は思っただろう。
 私もこれ書いててそう思った。正直、こんな小説を書かざるをえないような人にはなりたくない(笑)。
 ただ一方で思う。
 今こんな人が出るだろうかと。
 こんな無茶もいいところのスケール感でものを考え、しかもそれをあくまで論理的に追及し、それを最終的にたった一篇の小説に注ぎ込んで一生を終えるような人は(しかもその動機が「人間の解放」だもんねえ)。
 出ないだろう。また、出た所でこういった人は、いわゆる「功利的な意味で世の中の役に立つ」事とは一番無縁な存在なので、まったく「要らない者」としてパージされてしまうだろう(つうか存命中も一般的な知名度は殆どなかった)。
 
 しかし私は敢えて言う。
 今この国に一番足りないものは、彼のような存在であると。
 その理由を論理的に説明できる事は、今の私には出来ない。
 だが、福島を見てしまった今、すなわち「ここ数十年、ヘタしたら100年余りの私達の世の中の方向性」が否定されてしまった(と思ってる、私は)今、彼のように「周囲の思考枠から思いっきり外れて物を考えることが出来た」人がいた、という事は、私には灯火のように映る。
 勿論現実の問題を現実的に対処する事は大事だし、いくら何でも彼のようにど外れちまう事は(才能その他諸問題のため)無理なんだけど、何だか「オマエのその頭の中をもうちょっと広げてみな。まだまだ狭いぞ。捕らわれてるぞ」と彼に耳元で囁かれているような気持ちになる。