TARJEELINGニューアルバム「Quiet Life」に関する覚書 最終回

ニューアルバム「Quiet Life」に関する覚書と称して書いてきた連載も、いよいよ本日で最終回を迎えます。
今回は本で言ったら「あとがき」のような感じにするつもりです。

しばらく前、こういう事があった。
アルバムの告知・宣伝活動の一環として、アルバムから既にSoundcloudで発表した3曲を収めたサンプルCD-Rをフライヤーなどと一緒に色んな所に配布していたのだけど、
ある日道を歩いていたらある配布先の店長(厳密にはそこはお店ではないのだが)とバッタリお会いした。
挨拶もそこそこに、その方は先日お渡ししたサンプルの感想をおっしゃってくださった。
私と友人の一人は気に入ったと。
それだけだとまあ社交辞令ともとれるのだが、その後のコメントが非常に興味深かった。
その方曰く、気に入ったのだが、二人とも気に入った理由が分からないのだと。
つまりお二人ともガレージロックや前衛的な音楽を好んで聴かれており、日頃はああした「普通のポップス」の体裁を取っている音楽に接する事はないのだが、
にもかかわらずあれに関しては「何故か気に入ってしまったのだ」と。
私はそのコメントに感激するとともに、何となく合点がいった気もした。

前述の方の感想を私なりに解釈すると、人にはそれぞれ自分が好みだったり慣れ親しんだりする音楽ジャンルやサウンドなどの傾向があるものだけど、
「そういう所とは別の所」で私の音楽に共鳴した、という事なのだろうと思う。
そして、その共鳴した部分というのは恐らく言語化=記号化しにくい(それが容易な事を言語化できない知的レベルの人ではないからだ)。
感覚的/無意識的な部分による所が大きいだろうし、私がこの作品で意図した事をも超えた部分かもしれない。
だから、もしかしたら共鳴した部分を上手く言語化できたとしても、その答えに私はひょっとしたら困惑してしまうかもしれない。
だが、それでいいし、それがいいのだ。
思えば遥か昔、例えば海外の音楽や古の小説などに初めて出会った時に私の中に湧き上がって来たものとは、そうしたものではなかったか。
まるで理解できない言葉で吠えるように歌われる騒音のような楽曲、自分の父親すら生まれていない時代の事が描かれている物語、
それらは正に当時の私の「言語化=記号化できない部分」にヒットしたのだった。
それらについて勿論私は色んな事を考えはしたものの、まあ十中八九は間違っていただろうし、今考えている事もそうだろうと思う。
ただ、それが私をここまで進めてきたのも事実だ。
そしてもう少し成長して、「彼等みたいな事をやりたい」と志した時、「本当にやりたかった事」というのは、
彼らと(言葉や音の傾向として)同じジャンルに属したい、という意味ではなく、「聞き手の『そういう部分』にコミットできるものを作りたい」という事だったはずだ。
だから今回(も)覚書の中で各楽曲の意図やアルバム全体のねらいなどについてさんざん駄弁を弄してきたけれども、そうした事も本当の所はさして重要ではない。
いわゆる「クラスタ化」からもさらに分断が進み、もはや「一人一人が一クラスタ」とでも言うべき状況を呈している2018年の終わりだけれども、
その個別化の壁を少しでも越えていくものを作りたかった。
本作が、諸君の「壁を越えた部分」と共鳴せん事を、心から祈る。


※TARJEELINGニューアルバム「Quiet Life」発売記念講演!!
日時;2018年12月9日(日) 20時開講
会場;cafe and bar gigi(福岡市中央区清川)http://sound.jp/cafe-gigi/
料金;投げ銭制(要オーダー)
出演;TARJEELING/藤田進也/ATAMANAX/DISCHAAAGEEE