「食べ慣れた味」の喪失について

 『マツコ&有吉の怒り新党』という番組は、毎週欠かさず観るというわけではないのだが、何かの拍子に深夜テレビを点けた時にやっている事が多く、そういう時に面白く観ている。一昨日もそんな風に観た。
ご存知方も多いかと思うが、この番組は視聴者から寄せられる様々怒りや不満を取り上げ、それについてマツコ氏と有吉氏がアリかナシかをジャッジするという形を取っている。
昨夜観た分では、「最近の食べ物屋の料理は自分が昔食べてたものと味や調理法が変わりすぎてついてゆけない云々」という主旨の投書が来て、それに対してマツコ氏がやたら共感を示し、「最近のオムライスはデミグラスソース使いすぎ!あれはたっぷりケチャップを吸ったパリッパリのご飯をやつじゃないとダメ!」だの「いつからつくねは軟骨入りがデフォルトになったの!アタシは普通のつくねが食べたいのよ!」だの「みんな新しい味に合わせようと頑張り過ぎ!そんな頑張らなくていいのにね~」だのと暴走を続け、その様がやたらおかしくて近頃では珍しくテレビ観て爆笑してしまった(深夜なのに)。
で、爆笑した後、しみじみマツコ氏(&投稿者氏)の主張に共感してしまったのだよ。

 マツコ氏の主張はパッと見単なるオヤジの懐古趣味だが(笑)、核の部分を取り出すと「一体飲食店というものは新しい食文化に何が何でもキャッチアップする必要があるのか?全部が全部そんな頑張らなくてもいいのではないか?」というものだったと思う。
勿論、そうした事に頑張る店というのはあってもいいし、なければそれはそれで困る。そうした店の努力が我々の食文化の幅が広がる事に貢献しているわけだし。
ただ、当たり前の話だけど、食べる側というのは毎回毎回珍しい料理、新しい食べ方、創意に富んだ調理法などに出会いたくて食事をしているわけではない。
というか、食事という行為は人間の行動において、どちらかと言えば保守的な領域に属するものだろう。
嵐山光三郎だったかが「人間は食べ慣れているものが一番美味い」という名言を吐いていたが、私自身の生活実感と照らし合わせても、これは結構真理であるように思える。
で、ある料理を「食べ慣れる」ためには、これも当然だけど、ものすごく美味だったり、贅沢な食材を使っていたり、新しい発見に満ちた料理である必要はない。というかしばしばそういった事は「慣れ」の邪魔になる(食材が贅沢だったり人件費がかさんだりして高価な料理になると経済的な意味でも難しいし)。
なので、「そこそこ美味で、飽きが来にくくて、いつ食べても味に極端な変化がなくて、値段も安すぎず高すぎずぐらい」といった所が「食べ慣れた料理」になれる条件、という事になるだろうか。

 しかし現在の飲食店の状況でこれをやるのは大変そうだ。こういった料理を出す店はまず間違いなく「努力していない店」という扱いを受け(まあ、ある意味では事実なんだが)、「お客様のご要望や自分の技術向上のために絶えず研鑽を欠かさない店」とか「料理の水準は大した事ないけどとにかく激安な店」とかに客を取られて立ち行かなくなる。
料理法などに関しては私は素人なのでこれは当てずっぽうだが、本当はそういう店も「努力をしてない」わけではないと思う。「いつ何時でも同じ味を、値段もそれほど変化させずに出し続ける」というのはそれなりの努力を要すると思うが、そうした努力は努力として受け取る側にカウントされにくいだろう。
私の周りでも、そういう「努力のなさそうな店」(私そういう店をよく昼食時に利用するんですけどね。あ、でも「そこそこ美味」ってのは大事よ。不味いのは論外)が何軒かつぶれたり、路線変更したりしているのを見ている。
マツコ氏同様、私もどうもそういう風潮、居心地が悪い。
特定のお店の傾向がどうこうという話じゃなく、「食事とする」という行為の捉え方そのものが何か一面的になってる証左のような気がするからだ。
「競争原理」だの「絶えざる進化」だの「飽くなき可能性の追求」だのをそんなメシの局面にまでうるさく言い立てることはねぇじゃねぇか。もう少しゆるくやれねぇのか。
「いつもと変わらない味」だって外食産業における立派な需要になりえるんじゃねぇのかい。
誰にともなくそんな事でも言ってみたくなる。
前述の通り、新しい味や流行や、様々な創意工夫を取り入れる店の存在というのは大事な事だ。
彼等の努力のおかげで、私達の食生活というのは色んな意味で本当に「豊か」になった。それは疑いないし、感謝しなければならない事だ。
ただその一方で、「食べ慣れた味」を出す店が立ち行きにくくなっていると言うのは、それとは別の意味で「貧しい」事だと思うんだけどな。