パチンコ屋の前から

 毎朝労働に出向く際によくパチンコ屋の前を通る。
 パチンコ屋というのは大抵そうなのかも知れないが、前を通るとタバコの香りにエアコンの空気の香りが混じったような独特のにおいが鼻を突く。
 私はこの臭い、正直言って得意ではない。ゆえに毎回あまりいい気持ちでは通り過ぎないのだが、今朝に限っては何故か(不快は不快なんだけど)ある懐かしさを伴って私の鼻腔を刺激したのである。
 通り過ぎてしばらくして、その理由に思い当たった。
 子供の頃に家族旅行で行った、旅館の部屋のにおいを連想させたのである。

 嫌煙権はなやかりし今とは異なり、私が子供の頃は公共の場は喫煙可能がデフォルトだった。
 また、当時はまだエアコンがどこでも普及しているわけじゃなく(つうか、単純に我が家になかった)、また脱臭性能も今ほどよろしくなかった。
 故に例えば修学旅行でバスや電車に乗ったり、エアコンのついている部屋に泊まったりすると、あの独特の臭気に悩まされる事になるのである。
 また、当時の我が家には喫煙者はいなかった。要するにタバコ慣れしていない(エアコンにも)。おまけに当時の私は乗り物に弱かったときている。
 その結果、旅行に行くとなると、ただでさえ乗り物酔いするのに不快な臭いを延々かがされて吐きまくり(お食事中の方ごめんなさい)、宿に着いたら着いたで(大体当時のエアコンは冷やすにせよ暖めるにせよものすごく過剰だったので、それも相まって)くたばっているという有様。
 私が旅行をあまり好まなくなったのは、子供の時のこうした体験が少なからず影響しての事に違いない。旅行に行くという事は、不快な空気と闘う、という事と同義だったのだから。

 もちろん、今旅にでてもここまで不快な思いをすることはないだろう。
 私自身がタバコ臭やエアコンに慣れた事(ライヴハウスにはもれなくタバコ臭ついてくるし:笑)、エアコンの性能がよくなった事、また嫌煙権運動の浸透により公共の場での喫煙がめっきり減った事などなどの理由で、昔と較べると私を取り巻く環境ははるかに安楽になった、のかもしれない。
 喜ぶべき事なのだろう。
 ただ、奇妙な事なのだが、あれほどタバコ臭を嫌っているにもかかわらず、私は嫌煙権についてはあまり積極的でなかった(今でもそうだ)。
 一定のマナーと配慮(小さい子供の前ではなるべく控えてほしいとか、火のついた状態で手を振り回さんでほしいとか)については喫煙者に要求したいが、例えば私の目の前でタバコをスパスパやられても、割と私自身はどうって事ないし、やかましく言われている「公共の場での喫煙禁止」についても、「そんなに目くじら立てるこたあねえだろ」てな感じである。
 理詰めで考えたらこれはおかしい。タバコ臭が嫌いなら、そのタバコ臭を消すにはできるだけ喫煙可能な場所を減らすのが一番なので、もっと嫌煙権を振りかざした方が自分の為になるし、苦しんでいる自分と同じような者のためにもなるじゃないですか。矛盾してるよ。
 まったくそのとおり。
 だけど、やっぱり違うのだ。
 あの「振りかざす」という感じに、どうしても違和感を覚える。
 正しさとか、多数派とか、科学的である、といった「誰もが認めざるを得ないようにみえる事柄」を「振りかざす」風情というのが、私はどうしてもダメなのだ。それをやる位だったら自分が間違ってた方がまだマシなのである。
 もちろん、嫌煙権の成り立ちそのものは至極当然だと思うし、嫌煙権のけの字もなかった時代にそうした主張を通そうとしてきた人々に対しては敬意と感謝の念を抱いている。
 だが、「あんたが当然と思っている事が俺たちには不快なんだぜ。少しは考えなよ」という形では理解できるんだけど、「あんたがやってる事は間違いです。我々正しい方に改めなさい」というのは、―間違ってるとは言わないが―、私の性に合わない。気持ち悪い。

 そんな事をつらつら考えながら、職場までの道を急いだのであった。いずれ曲の題材にでもなるかもしれない。