映画「精神」を観た

 数年前、別の映画を観に行った際、この映画の予告編が流れていた。
 観に行きたいと思いつつ叶わなかったところ、レンタル店にDVDが置いてあるのを発見し、早速借りる事にした。
 ちなみにその前借りたDVDは『少年探偵団 BD7 vol5、6」。この落差(笑)。

 この作品は、岡山県にある実際の精神科の診療所を舞台に、そこを訪れる様々な心の病を抱えた人々(や彼らを診る医師・スタッフなど)を捉えたドキュメンタリィである。
 と書くと、よくNHK教育あたりでやってそうな番組のようなノリ(いや、そういうのも俺結構観ますけどね)とは、少し異なる。
 この映画には、説明的なテロップ、ナレーションや、バックに流れる音楽が一切ない。
 インタヴュウ場面では皆結構饒舌なのだが、全体を通しての印象は非常に静謐である。
 意図的に作りこんでないカメラワークと相まって、監督の言葉を借りれば「あたかも診療所を訪れ、そこにいる人々と出会い、言葉を交わしたかのような」時間を観客は体験する事となる。
 そこには声高に主張されるメッセージ、政治的・倫理的プロパガンダといったものは見当たらない。

 映画の公式サイトにある、監督のメッセージを引用しよう。

 「気が触れた人たち」は、健常と呼ばれる人たちによってしばしば、好奇と興奮と軽蔑を交えて語られる。彼らは時折自分たちの世界にふと顔を出す異界の存在であり、同じ空気を吸っている人間とは見られていない。健常者と精神障害者たちの間は見えないカーテンで遮られており、多くの健常者たちは、カーテンの向こう側にいる精神障害者たちの世界を、自分たちには関係のないものとして処理してしまっている。
 (中略)僕が『精神』で行ったのは、この見えざるカーテンを取り払う作業である。固定概念や先入観を極力捨てて、患者や障害者を「弱者」とも「危険な存在」とも決めつけず、かといって賛美もせず、虚心坦懐に彼らの世界を見つめることを第一義とした。

 はたしてこの試みは、達成されたのであろうか。
 
 先ほど、「声高に主張されるメッセージ、政治的・倫理的プロパガンダといったものは見当たらない」と書いたが、実はそう取られそうな場面はいくつかある。
 例えば、撮影当時はいわゆる「障害者自立支援法」が施行される前後だったようで、患者やスタッフがその法律により十分な治療や支援が受けられなくなる不安や不平を口にし、また意見書を(当時の政権与党である)自民党のサイトに送る相談をしているシーンがある。
 これは政治的なプロパガンダとも取れる例だが、もっと根源的な問題もある。
 映画の中の患者は、確かにぬくぬくと生きてきた者からすれば目を背けたくなるような悲惨な体験を語る者もいれば、時としておかしな言動をする者もいる。
 だが彼らが自分を語り、日常を生き、仲間と触れ合う姿というものに、いわゆる我々が日頃見る「健常者」のそれと特別大きな隔たりがあるようには感じられない。
 ここでの患者達は、「明らかに異常な人達」というよりは「悩み苦しみの多いだけの人達」という風に見える。というかそういう風に撮られているように、感じられる。
 そこから「精神障害者も、我々健常者と同じ人間なんですよ。差別するのはよくないね」的なメッセージは、割と簡単に引き出せるのではないだろうか。
 しかしそれはそれで、一つ間違えば「声高に主張されるメッセージ」になる危険を孕みはしないか。たとえ無意識的であるにせよ、「また一つの見えざるカーテン」を作る事に加担しやしないか。

 終盤、患者の一人が作った手製の詩集(本人撮影の写真の横に、直筆の言葉が添えてある)を他のみんなが朗読し談笑する場面がある。
 残り時間と流れから見て、私はこのシークエンスで映画は終わりだと思った。と同時に、「ああやっぱり『その辺』で着地したのね」と、半分ホッとし半分物足りないような気持ちで観ていた。
 ところがここから場面は一転する。
 診療所の関連の施設に、一人の患者がやってくる。
 それまで出てきていた患者とは明らかに雰囲気が異なる、鋭い目つきの、攻撃的なヴァイヴを宿した初老の男である。
 この男、自分の携帯持っているのにもかかわらず施設の電話を使い、あちこちに電話をかけまくる。
 電話の相手はどうも福祉関連の事務所などのようだが、恐らくは手続き上のことでこの男がとにかくクレームというか難癖をつけまくるのである。
 施設の職員が、そろそろ閉める時間だからなどと再三男をうながすが、委細構わず電話を続ける。
 何ヶ所かにさんざん文句をつけた後、話がついたのか気が済んだのか分からないが、ようやく受話器(子機)を返して来た時と同じように唐突に帰ってゆく。
 ここで本編終わり。
 
 はっきり言って、かなりムチャな終わり方なのは否めない。
 今まで出て来た患者の姿に自分と共通するものを感じてきたとしても、最後の男に対して共感や同情を抱くというのは、かなり難しい。
 というか大抵の人は、自分の周囲にあんな人がいたら普通にイヤだろう。俺はイヤだ(笑)。
 観ている側が折角今まで築きつつあった「精神障害者への理解へのまなざし」といったものをご破算にしかねないエンディングである。

 これを最後に持って来る事が映画にとって、また精神障害者の世界を描く上で正解なのかどうかというのは、議論の余地があるだろう。
 ただ私にはこの終わり方を選んだのは、何だか分かるような気がした。
 そういう意図があってのものかは分からないが、監督がこの映画を進める上で抱くに至った「精神障害者への理解や共感」に―正確に言えばそれが「見えざるカーテン」となる危険性に―監督自身が突きつけた疑いのように思えたのだ。
 いや疑いとかそういうものですらないかもしれない。もっと感覚的な、「じんましん」みたいなものかもしれない。
 だがこのエンディングがあるが故に、「見えざるカーテンを取り払う」という監督の意志が、プロパガンダに堕しかねないきれいごとではなく伝わってくるように思えるのは私だけだろうか。

 あと、この診療所で患者を診ている山本医師はただ者ではないなあと思った。
 患者をカウンセリングする際の話の聞き方と口の挟み方が、素晴らしいのだ。
 とはいっても、パッと見患者をちゃんと見てるのか見てないのかよう分からん風情で耳を傾け、時折ボソッと「あんた(患者自身)はどう思う・どうしたい?」と質問し、アドヴァイスも別に大した事言ってるわけじゃないのだが、患者を尊重し、真摯に向き合っている事が画面からもひしひしと伝わってくるのである。
 何がどうなってそう感じさせる仕組みになっているのかさっぱり分からないのだが、これだけ「あんたの事認めるよ。話を聞かせてくれよ」オーラを出されると患者の方もかなり嬉しいのではないか。
 ただこれは素人の意見なので、実際の精神医療の関係者、または精神障害者から見てどうなのかはよく分かりません。そういう人の感想も聞いてみたいですなあ。