本当は、これから

 昨日で、震災から2年。
 皆やってる事かもしれないけど、私もこの2年間の事とこれからの事を、考えてみようと思う。

 東北の復興や、国の原子力発電に関する政策、そしてそれらの問題を包括してある「私たちが暮らすこの社会のあり方」。
 これらはこの2年間で、どう変わっただろうか。
 もちろん、細かく見ていくと一概に良くなった、悪くなったとは言えないが、少なくとも国の政治に関して言えば、震災直後に多くの人たちが感じていた(だろう)、変革の気分とは全く異なる、というか有体に言えば大きく後退した方向に向かっているというのが正直な感想だ。
 その事に関して、昨日内田樹さんがtwitterで面白い事を言っていた。
 以下引用。

おはようございます。3月11日。震災と原発事故から2年経ちました。この間高橋源一郎さんとも話したことですが、2年間が立って、僕たちが今立ち至ったのは「3/11以前」です。人々はまるで、何事もなかったように、あの出来事を早く忘れたがっている。
3/11で根本的に手直ししなければならないことが露見した無数の制度上の瑕疵について、2年後に日本人がたどりついた結論は「3/11をなかったことにしたい」と思っている政治家たちを信任することでした。
でも、それは日本人がシニカルになったということではないと信じたいと思います。そうではなくて、未来を望見する人たちは既存の政治システムとは違うところで日本社会を作り直そうとしているので、効率の悪い旧い政治過程にまで手が回らないのだ、と。とりあえずはそう考えることにします。

 ~引用終わり~

 私は日本人が「3/11をなかったことにしたい」と思う政治家を信任したのは少なからずシニシズムの要素も作用しているとは思うけど(つうか、この書き方だと内田さんも内心はそう思ってるんじゃねえかな)、「未来を望見する人たちは既存の政治システムとは違うところで日本社会を作り直そうとしている」という説には同意する。
 先の衆議院選挙で私達は途方にくれるような選択を強いられる事になったのだけど(ただ、私は選挙の結果を小選挙区制のせいばかりにするのはややアンフェアだと思うけど。小選挙区制の弊害なんて10年も前から言われて散々痛い眼に遭ってきてんだから、国民の側もそれを見越した上での選択をもうちょっと頭ひねって考えるべきだったと思う)、あの選挙および結果を受けて、「あ、もう『国政』に期待すんのって完膚なきまでにダメなのね。じゃ、それ以外のとっからボチボチ変えていくしかしょうがなくね?」と思った人(もしくは前から思ってたけどようやく踏ん切りがついた人、とか)は、私は少なくなかったと思っていて。
 と言うか、大概の日本の民は日本の政治家よりも優秀かもしれないけど(笑)、曲がりなりにも民主制で政治家選んでいるからには(あ、日本が本当に民主主義国家に値するのかとかそういう議論はなしね、話がややこしくなり過ぎるから)、政治家が劣悪な咎の一部は国民も引き受けるべきなので、まずは民のクオリティ上げていく事が先決やねと、私なんかも思ったりしたわけだ。

 何となく、なんだけど、キーワードは「『個人』の確立」かなぁ、という気がする。
 『個人』と言っても、今の世の中でよく言われているような「人は人、自分は自分っすね」という意味で使われてる「個人」とはちょっと異なる意味での。
 これは最近よく読んでいる鶴見俊輔の影響が大きいんだけど、またこの話は長くなるので後日。
 とにかく、本当は、これからなんだ。