「無力さ」という誇り

 先週末の夜、テレビ番組「SWITCHインタビュー 達人達」を観た。
 今回は内田樹氏と能楽師観世清和氏の対談。
 内田氏に関しては、日頃からブログやtwitterで発言されている内容と大体同じ話だったので、正直驚きはなかった(面白かったけど)。
 対する観世氏については、ほぼ全く存じ上げない(つうか能楽自体を当方ほぼ全く存じ上げないのだが)状態で観たせいか、非常に興味深い事の連続だった。

 と言っても観世氏の発言自体が特に興味深かったというわけではなく(内田氏に比べ口数が多くないせいもあるが)、時折挿入される舞台や稽古場の映像における動き、所作、声の張り方、そういったものの一々が、とにかくすげえなあと。
 前述の通り、私の能についての知識はほぼゼロである。
 なので、能の動きというと「とにかく昔の人の動作がゆっくりしたもんだったのでそれを再現するためにあんなにスローな動きをしているんだろう」ぐらいにしか思ってなかったのだが、そういう浅はかな考えはこれ観て一発で覆された。
 覆された所で感想はというと「わずかな人の動き一つによって『気』が集まったり、時間感覚が変わる事って本当にあるんだなあ」といった至極馬鹿みたいなものなんだけど、逆に言えばこんなクソ素人にもそういう事を即座に解らせる程すごかったのだ、観世氏の舞は。
 もちろん全ての能楽師がこんなすごいわけではないんだろうけど、一度生で能の舞台を見たくなった事は確かである。

 とは言え、番組中最も感じ入ったシークエンスは実はそこではない(長すぎるよ、前ふり)。
 今年の5月、観世氏は東日本大震災の被災地に赴き、弔いの謡を捧げたという。
 元々能楽は戦乱の世において多くの死者を弔う芸能として発展した側面があるのだそうで(主人公のほとんどは亡霊なんだそうだ。知らなかった!)、そういう意味では被災者に謡を捧げるのは能楽本来の役割と言ってもいいのだろう。
 番組中でも、その謡を披露する映像が紹介された。
 観世氏や伴奏する人(何て言うんだっけ、鼓とか打つ人。ああ無知にも程がある…)等三人の演者が、海に向かって謡う姿をカメラは背後から引きで捕らえていたのだが、その画を観たら何とも言えない気持ちで胸がいっぱいになってしまった。
 東北の大海原と向きあって声を張る観世氏らの姿は、いかにもちっぽけに見える。
 謡自体は素晴らしいのだが、なにぶん能楽堂などとは違い全く反響がないので、発すると同時に波間に吸い込まれていくような錯覚を受ける。
 その様子は、「大いなる自然の力の前であまりにも無力な人間」を容易に想起させるものだ。

 しかし、私はそういった人間の無力さ、弱さのみならず、ある種の尊厳、誇りといったものもその姿に感じた。
 考えてみれば、この列島に住む人間は、多種多様な自然環境の恩恵を享受する一方、これまた様々な種類の災厄に悩まされてきた。
 地震があり、大津波があり、台風があり、洪水があり、火山の噴火があった。
 それらにいちいち翻弄され、多くの命が失われるたび、死者を弔い、災厄が鎮まるよう祈ってきたのだろう。
 この列島で、ついこないだまで連綿と行われてきた、弔いと祈り。
 それはきっと、この観世氏らの謡のような構えで(もちろん時代や地域によって様式は変わっただろうが)行われてきたに違いない。
 
 大いなるものに対して、ただの無力なものとして、衒わず、奢らず、まっすぐに向き合い、祈りを捧げる事。
 そういう存在として、この列島で曲がりなりにも命を繋ぎ続けてきて、その末裔として今ここにあるという事。それをよしとする事。
 西洋のような、「自然を征服する」タイプの文明にとっては、「弱さ」や「愚かさ」、または「野蛮さ」にしか見えないものを、それでも(それが孕む弱さ、愚かさ、野蛮さをも含めて)丸ごと肯定する事。
 私が観世氏らの姿に見た「誇り」というのは、そういった姿勢に宿るものだったと思う。
 実を言うと私は、「誇り」という言葉が苦手だ。特に近年この国の人々が多用するようになった「○○である事を誇りに思う」という言い回しには、夜郎自大な響きと裏に見え隠れする人目を気にする情けなさにどうにも違和感を感じてしょうがない。
 しかし、観世氏のような、自らが無力で弱い事を真正面から受け止めたような「誇り」のあり方なら、自分が持つ事は出来ぬまでも、素直によしとする事が出来るかもしれない。
 そんな事を考えながら、弔いの謡を捧げる観世氏の姿を見ていた。