めちゃめちゃご無沙汰です。

 いやあ、なんと1ヶ月以上もコラムを更新しなかった。こんな事は初めてかもしれない。

 なんでここまで書かなかったのかというと理由はシンプルで、
 書く事がない。
 書く必要を感じない。
 とまあ、これだけだったりするんですが。
 最後のコラムでは眼鏡壊れた事を書いていましたが、おかげ様で、無事に(?)新しいフレームに買い換えました。ですが、アイドルタレントならいざ知らず、私のニュー眼鏡姿を披露した所で喜ぶ人など誰もいないのだし。

 ネットに向き合う事自体もかなり減りました(まあ、元々そんなのべつまくなしはやってなかったんだけどさ)。2~3日まったく繋がないなんてのは屁でもない(笑)。たまに繋いだ時もメールだけ見て終わり、みたいな。
 これって結構快適なんですよね。肩こり減るし。ヘンなストレス溜まんないし。何よりもまず、「発信する必要がない時に発信しなくていい」というのは、なかなかいいもんだなあと。
 人によっては今の話「最初からする必要がないんだったらしなきゃいいじゃん」と思う方もいるでしょうが、で確かにそうなのですが、思うにネットという奴は「発信しなくてもいいのに観ていると何か発信しなきゃ自分が取り残されたり、馬鹿のように思えてしまう」所があるようでして、その呪縛にはまっている人も結構いるように思えるのですよ。
 そういう事ははっきり言ってエネルギーの無駄ですから、私は極力控えるようにしようと。書く必要を感じた時だけ書くようにします。

 で、今回の書く必要は何かと言いますと。
 最近とても気に入っている音楽があるのですね。
 といっても、誰かの新譜というわけでもライヴでいいバンドに出会ったとかではなく、ラジオで聴いた、しかも音楽が本職でない人の歌なんですが。
 沼田元氣さんという、詩人でも芸術家でもこけし評論家でもあり・・・みたいな方がゲストで出ていたラジオ番組を聴いてた時の事。
 私はこの方のことを全く知らなかったのですが、なかなか面白い感じの人で。
 で、この方が80年代に作ったという音源がかかったのですが、一聴して笑い出し、ただ曲が進むにつれてしみじみ聴き入り、しまいにはラジオに合わせて口ずさんでしまったのです。

 幸い音源がYouTubeに上がっていましたのでご紹介します。

沼田 元氣「貧乏ソング」


 これ要するに「旅愁」(♪ふーけゆくー、あーきのよー、って昔小学校とかでも歌わされたあれですね)を替え歌してるだけなのですが、このメロと歌詞のそのまんまさと歌唱のすっとぼけ具合とカントリータッチのシンプルな演奏が、メチャメチャ合っていると思いませんか?

 あと、沼田さんご本人が語っていた曲にまつわるエピソードもかなり面白かった。
 曲が作られていた当時、沼田さんは今の恵比寿ガーデンプレイスですか、あのあたりに建っていた7LDK(!)の貧乏長屋に暮らしていたそうで。
 そこで住んでいるのはお年寄りばっかりで、当然全員ド貧乏だったのですが、それこそ醤油とか味噌を貸し合うような、古きよき時代的な生活をしていて、全然苦だとは思わなかったと。
 しかし時はバブルの時代。地上げ屋が横行し、その長屋も対象となり、遂には立ち退かざるを得なくなったそうで。で、立ち退きが決まった時、今までの生活と一緒に暮らしてた人に感謝の気持ちを込めてこの音源を作ったのだそうです。
 とてもいい話なのですが、同時に考えさせられる話でもあります。
 あの時代においては、そういう生活してる人たちというのは完全にアウト・オブ・デイトな存在じゃないですか。一方、バブルが崩壊し、失われた二十年を経た現在においては貧困のイメージというのはこんな楽しげなものでは全くない。故にこの曲で歌われているような心情は、その当時からも現在からも浮いています。
 ですが、ひょっとしたら、未来にはしっくりくるのかもしれません。未来と言っても来年再来年というような話ではなく、それこそ数十年たって、今の時代がそれこそバブル崩壊の頃と同じ時代のくくりで語られる頃かもしれませんが。
 それゆえにでしょうか、この曲からは、単に古いとか時代に合わないとか、あるいはノスタルジックな心情を喚起させるというよりは、どこか不思議なリアリティと、根拠があるんだかないんだか分かりませんが、奇妙な説得力をもった希望を感じる事が出来ます。いや勿論今すぐそんな生活やれとかはそりゃ無理だし「貧乏も気の持ちようで・・・」的な精神論はむしろ嫌いなのですが。
 少なくとも、この歌が鳴ってる(含む頭の中)間は、目の前の風景が少し変わって、素の状態では下らないとしか思えない景色にも、希望が宿る、とまでは言わないまでも、希望を探す手がかりを見つけられそうな気になります。
 それは音楽が出来るとてもいい事の一つ。でも不思議だね。貧乏楽しいっつってるだけの歌詞なのにね(笑)。