不定期連載 「馬の脚」第三回「天罰考」

 前回分、論旨としては間違ってないと思うけど、もうちょっとコンパクトにまとめて書きたかったのう。
 まあ一つ言えるのは、藤波さんよりは確実に知的じゃないね俺(笑)。
 
 それと、「こんな事書いても金を生まない、役に立たない、被災者の為にならない」という向きもあるかと思いますが、
 そりゃそうでしょ。最初からそういうつもりで書いてるんだから。
 具体的な支援の仕方とか、そういう話はそれはそれで当然考えたり、やったりすればいい事であって、このシリーズで書いていきたい事はそういう話ではないと、俺は最初に言っておいたはずなんだけど?
 
 さてさて今回はややアンタイムリーな話題から入ってみる。
 タイトル見たらもうお分かりですね。東京都知事石原慎太郎が、今回の震災を「天罰」であると発言した件。
 といってもここでは、直接的にその発言の是非について考える事はメインではない。まあ、圧倒的多数の人が「非」と思っているようだし、私も実の所そうなのだが。
 
 ただ、自然災害を「世の中が乱れている事に対する天の怒りである」とする考え方は、割と日本人には馴染みのあるものではなかったか。
 「天罰」以外にも、天候、季節の移り変わり、様々な自然現象を「人智を超えた存在からのメッセージ」として受け取ったり、人間以外の森羅万象に神性や、人格めいたものを見出したりするのは、今に至るまで我々はしばしばやっている事なのだ(日頃はあまり意識していないが)。
 当たり前の話だが、「自然」はそんな事を思って災害や自然現象を起こしているわけではない。
 だが、だからと言って上記のような捉え方を「非科学的である」「人間の勝手な見方である」と一蹴するのもどうかと思う。
 というか、私はそうした切り捨て方をしたくない。
 
 例えば、今回の震災をTVで見て、「怖い!」とか「被災者助けなきゃ!」とかじゃない、何らかのメッセージを勝手に受け取ってしまった人って、結構いるんじゃないかと思うんだ。
 その直感というのは、ひょっとしたら自分の中に眠っていた問題意識が発露した結果かもしれない。
 だったらその意味を考えていく事は、決して無駄な事でも、非科学的な事でもないと思うし、今から相当長い間、「震災がもたらしたもの」と向き合って生きて行く上では、むしろ時間が経つにつれて大事になっていく考え方ではないかと思う。
 
 じゃあ石原の発言はなんでダメダメだったのかを一応述べておくと、まず公人の公的な発言なのに被災者への配慮がなかった事が一つ(そりゃまあ、被災者への同情も口にしたらしいけど、あんな発言してしまった後じゃ伝わんねえわな)。
 もう一つは、「天罰」が石原自身に対するものでもある、という視点が全く欠けていたからである。
 石原も「日本人」だからこの場合は石原自身へのものとしても成立するのではないか、というのはやっぱり詭弁だろう。発言なんだから、言葉だけじゃなくてニュアンスとか言い回しとかでそれを感じさせる事をしないと。政治家は喋るのが商売なんだから。
 でも「我欲」をなくしたら天災がなくなってくれるんですかね。被災者の配慮以前の問題として、全然関係ない話だろという気もするが(笑)。
 
 月並みだが、私が受け取ったメッセージも最後に記しておく。
 やはり単純に「自然は人間の想定など軽がると超えちゃうもんだよ」とは思った。
 で、「だからといって人間が人間である事を放棄は出来ねえよ」とも思った(放棄した方がいいかもわかんないけど)。
 そして、「でも、『自然がそういうもんだ』という事は頭の片隅に置いておかないとまずいよ」と最後に思いました。
 ホントに月並みでしたね(笑)。